論語と算盤 / 人格と修養・権威ある人格養成法
さて、人格の修養をする方法工夫は種々あらう、或は仏教に信仰を求めるも宜しからう、或は「クリスト」教に信念を得るも一方法であらうが、余は青年時代から儒道に志し、而して孔孟の教は余が一生を貫いての指導者であつた〻゙けに、矢張り忠信孝悌の道を重んずることを以て大なる権威ある人格養成法だと信じて居る、これを要するに忠信孝悌の道を重んずるといふことは全く仁を為すの基で、処世上一日も欠くべからざる要件である、既に忠信孝悌の道に根本的修養を心掛けた以上は、更に進んで智能啓発の工夫をしなければならぬ、智能の啓発が不十分であると、兎角世に処して用を成すに方り完全なることは期し難い、従つて忠信孝悌の道を円満に成就するといふことも出来なくなつて来る、如何となれば、智能が完全なる発達を遂げて居ればこそ、物に応じ事に接して是非の判別が出来、利用厚生の道も立つので、玆に始めて根本的の道義観念と一致し、処世上何等の誤謬も仕損じもなく、能く成功の人として終局を全うすることを得るからである、
書き下し
さて、人格の修養をする方法工夫は種々あろう。あるいは仏教に信仰を求めるもよろしかろう、あるいはクリスト教に信念を得るも一方法であろうが、余は青年時代から儒道に志し、そして孔孟の教えは余が一生を貫いての指導者であっただけに、やはり忠信孝悌の道を重んずることをもって大なる権威ある人格養成法だと信じている。これを要するに忠信孝悌の道を重んずるということは全く仁を為すの基で、処世上一日も欠くべからざる要件である。既に忠信孝悌の道に根本的修養を心掛けた以上は、さらに進んで智能啓発の工夫をしなければならぬ。智能の啓発が不十分であると、とかく世に処して用を成すに当たり完全なることは期し難い。したがって忠信孝悌の道を円満に成就するということも出来なくなって来る。いかんとなれば、智能が完全なる発達を遂げていればこそ、物に応じ事に接して是非の判別が出来、利用厚生の道も立つので、ここに始めて根本的の道義観念と一致し、処世上何らの誤謬も仕損じもなく、よく成功の人として終局を全うすることを得るからである。
現代語訳
さて、人格を修養する方法や工夫はいろいろあるだろう。仏教に信仰を求めるのもよいだろうし、キリスト教に信念を得るのも一つの方法であろう。しかし私は青年時代から儒教の道を志し、孔子・孟子の教えは私の一生を貫く導き手であっただけに、やはり忠信孝悌(まごころ・信義・親への孝行・年長者への従順)の道を重んじることが、大いに権威のある人格養成法だと信じている。要するに、忠信孝悌の道を重んじることはまったく仁を行う基礎であり、世を渡るうえで一日も欠かすことのできない要件である。忠信孝悌の道について根本的な修養を心がけた以上は、さらに進んで知恵と能力を開発する工夫をしなければならない。知恵と能力の開発が不十分だと、とかく世に処して役に立とうとするとき、完全であることは期待しにくい。したがって忠信孝悌の道を円満に成し遂げることもできなくなってくる。なぜなら、知恵と能力が十分に発達していればこそ、物事に応じて是非を判別することができ、利用厚生(物を役立て暮らしを豊かにすること)の道も立つのであって、そこではじめて根本の道義観念と一致し、世を渡るうえで何の誤りも失敗もなく、成功した人として最後をまっとうすることができるからである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・権威ある人格養成法国民の帰依すべき道徳律が確立しており、人はこれに信仰を持って社会に立つという有様であるならば、人格は自ずから養成されるから、社会は滔々として我利のみこれ図るというようなことはない訳である。ゆえに余は青年に向かってひたすら人格を修養せんことを勧める。青年たるものは真摯にして率直、しかも精気内に溢れ活力外に揚がる底のもので、いわゆる威武も屈する能わざるほどの人格を養成し、他日自己を富裕にすると共に、国家の富強をも謀ることを努めねばならぬ。信仰の一定せられざる社会に処する青年は、危険が甚だしいだけに自己もそれだけに自重してやらねばならぬのである。
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『論語と算盤』人格と修養・権威ある人格養成法人生終局の目的たる成功に対しても、近時多種多様にこれを論ずる人があって、目的を達するにおいては手段を択ばずなぞと、成功という意義を誤解し、何をしても富を積み地位を得られさえすれば、それが成功であると心得ている者もあるが、余はそのような説に左袒することが出来ない。高尚なる人格をもって正義正道を行い、然る後に得た所の富、地位でなければ、完全な成功とは言われないのである。
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『論語と算盤』常識と習慣・正に就き邪に遠ざかるの道かく論じ来れば、意志の鍛錬には常識が必要であるという事になって来るが、常識の養成については別に詳説してあるからここには省くとしても、やはりその根本は孝悌忠信の思想によらなければならぬ。忠と孝とこの二者より組み立てたる意志をもって、何事も順序よく進ませるようにし、また何事によらず、沈思黙考して決断するならば、意志の鍛錬において間然する所はないと信ずる。しかしながら事件は沈思黙考の余地ある場合にのみ起こるものでない。唐突に湧き起こったり、さなくとも人と接した場合なぞに、その場で何とか応答の辞を吐かねばならぬことがいくらもある。そういう機会にはあまり熟慮している時間がないから、即座に機宜を得た答えをしなければならぬが、平素鍛錬を怠った者には、その場に適当な決定をすることがちょっと出来がたい。従って勢い本心に反したような結末を見なければならぬ。ゆえに何事も平素においてよく鍛錬を重ねるならば、ついにはそれがその人の習慣性となりて、何事に対しても動ずる色なきを得るに至るであろう。
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『論語と算盤』人格と修養・権威ある人格養成法現代青年に取って最も切実に必要を感じつつあるものは人格の修養である。維新以前までは、社会に道徳的の教育が比較的盛んな状態であったが、西洋文化の輸入するにつれて思想界に少なからざる変革を来し、今日の有様ではほとんど道徳は混沌時代となった。すなわち儒教は古いとして退けられたから、現時の青年にはこれが十分咀嚼されておらず、というて耶蘇教が一般の道徳律になっている訳ではなおさらなし、明治時代の新道徳が別に成立したのでもないから、思想界は全くの動揺期で、国民はいずれに帰嚮してよいか、ほとんど判断にさえ苦しんでいる位である。したがって一般青年の間に人格の修養ということはほとんど閑却されているかの感なきを得ないが、これは実に憂うべき趨向である。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養は人を卑屈にすると言うは、礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思う。およそ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らるるので、決して愚昧卑屈でその域に達するものではない。大学の致知格物も、王陽明の致良知も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。かえって己の良知を増し、己の霊光を発揚するのである。修養を積めば積むほど、その人は事に当たり物に接して善悪が明瞭になって来るから、取捨去就に際して惑わず、しかもその裁決が流るるごとくなって来るのである。ゆえに修養が人を卑屈愚昧にすると言うは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すにおいて必要だということになるのである。これをもって修養は知識を軽んぜよというのではない。ただ今日の教育は、あまりに智を得るのみに趨って、精神を練磨することに乏しいから、それを補うための修養である。修養と修学を相容れぬごとくに思うのは大なる誤りである。
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『論語と算盤』教育と情誼・現代教育の得失論語にも「その人となりや孝弟にして、上を犯すことを好む者は鮮し。上を犯すことを好まずして、乱をなすことを好む者は、いまだこれあらざるなり」と言い、「君に事えてよくその身を致す」と言いて、忠孝主義を述べ、かつ仁義礼智信の教訓を敷衍しては、また同情心、廉恥心を喚起させるようにし、また礼節を重んずるようにし、あるいは勤倹生活の貴ぶべきことを教えたものであるから、昔の青年は自然と身を修むるとともに、常に天下国家の事を憂い、朴実にして廉恥を重んじ、信義を貴ぶという気風が盛んであった。これに反して、現今の教育は智育を重んずるの結果、すでに小学校の時代から多くの学科を学び、さらに中学大学に進んでますます多くの智識を積むけれども、精神の修養を等閑に付して心の学問に力を尽くさないから、青年の品性は大いに憂うべきものがある。
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