論語と算盤 / 人格と修養・誤解されたる修養説を駁す
又修養の為に偽君子となり、卑屈に陥るならば、其の修養は誤れる修養であつて、吾々の常に言ふ修養ではないと思ふ、人は天真爛漫が善いといふことは私も最も賛成する所であるが、人の七情即ち喜怒哀楽愛悪慾の発動が、いつ如何なる場合にも差支ないとは言はれぬ、聖人君子も発して節に中るのである、故に修養は人の心を卑屈にし天真を害するものと見るは大なる誤りであると断言するのである。
書き下し
また修養のために偽君子となり、卑屈に陥るならば、その修養は誤れる修養であって、我々の常に言う修養ではないと思う。人は天真爛漫が善いということは私も最も賛成する所であるが、人の七情すなわち喜怒哀楽愛悪欲の発動が、いついかなる場合にも差し支えないとは言われぬ。聖人君子も発して節に中るのである。ゆえに修養は人の心を卑屈にし天真を害するものと見るは大なる誤りであると断言するのである。
現代語訳
また、修養のせいで偽君子になり、卑屈に陥るのなら、その修養は誤った修養であって、我々がふだん言う修養ではないと思う。人は天真爛漫であるのが良い、ということには私も大いに賛成する。しかし、人の七情、すなわち喜・怒・哀・楽・愛・悪・欲の動きが、いつどんな場合にも差し支えない、とは言えない。聖人君子であっても、感情は発して節度にかなうのである。だから、修養は人の心を卑屈にし天真を損なうものだと見るのは大きな誤りである、と私は断言する。
解説
「発して節に中る」は『中庸』の「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂ふ。発して皆節に中る、之を和と謂ふ」を踏まえた言葉である。感情を持つなというのではない。感情は出てよいが、出方が場にかなっていることが大切だ、という意味である。渋沢は天真爛漫の価値をまず認めたうえで、感情が何の抑えもなく出ることまで自然として肯定するのは違う、と線を引く。そして修養によって偽君子や卑屈な人間になるなら、それは修養の失敗例であって修養そのものの罪ではないと言う。怒りを我慢して言いなりになるのが修養ではなく、怒るべきときに怒るべき分だけ怒れるようになるのが修養である。職場で感情を殺すことと、感情を使いこなすことの違いを考えさせる一段である。
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