論語と算盤 / 人格と修養・誤解されたる修養説を駁す
修養とは身を修め徳を養ふといふことにて、練習も研究も克己も忍耐も都て意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づくやうに力めるといふことで、それが為に人性の自然を矯めるといふことは無いのである、つまり人は十分に修養したならば、一日々々と過を去り善に遷りて聖人に近づくのである、若しも修養した為に、天真爛漫を傷けると言ふならば、聖人君子は完全に発達した者でないといふことになる
書き下し
修養とは身を修め徳を養うということにて、練習も研究も克己も忍耐もすべて意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づくように努めるということで、そのために人性の自然を矯めるということは無いのである。つまり人は十分に修養したならば、一日一日と過ちを去り善に遷りて聖人に近づくのである。もしも修養したために、天真爛漫を傷つけると言うならば、聖人君子は完全に発達した者でないということになる。
現代語訳
修養とは身を修め徳を養うことであり、練習も研究も克己も忍耐も、すべてを含んでいる。人が次第に聖人や君子の境地に近づくよう努めることであって、そのために人間の自然を矯めるということはない。つまり十分に修養すれば、人は一日一日と過ちを去り善に移って、聖人に近づいていくのである。もし修養によって天真爛漫が損なわれると言うのなら、聖人や君子は完全に発達した者ではない、ということになってしまう。
解説
修養は人の天真を損なう、修養は人を卑屈にする——この二つの批判に渋沢が答えた章である。第一の批判に対しては、修養と修飾を取り違えていると返す。飾ることと養うことは別だ、と。第二の批判には、修養は土人形を造ることではない、と応じる。むしろ積むほどに善悪の判別が明瞭になり、取捨去就に迷わず、裁決が流れるようになる。だから修養は智を増すために必要なのだ、と。ここには当時の空気も見える。今日の教育は智を得ることに偏り、精神を練磨することに乏しい、それを補うのが修養だ、と彼は言う。修養と修学は相容れないものではない、という一句がこの章の芯である。
この章句が説くこと
修養と修飾天真爛漫修養と修学過を去り善に遷る