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論語と算盤 / 人格と修養・誤解されたる修養説を駁す

修養は人を卑屈にすると謂は、礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思ふ、凡そ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らる〻ので、決して愚昧卑屈で其の域に達するものではない、大学の致知格物も、王陽明の致良知も、矢張り修養である、修養は土人形を造るやうなものではない、反つて己の良知を増し、己れの霊光を発揚するのである、修養を積めば積むほど、其人は事に当り物に接して善悪が明瞭になつて来るから、取捨去就に際して惑はず、而かも其の裁決が流る〻如くなつて来るのである、故に修養が人を卑屈愚昧にすると言ふは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すに於て必要だと云ふことになるのである、是を以て修養は智識を軽んぜよといふのではない、唯今日の教育は、余りに智を得るのみに趨つて、精神を練磨することに乏しいから、それを補ふための修養である、修養と修学を相容れぬ如くに思ふのは大なる誤りである。

書き下し

修養は人を卑屈にすると言うは、礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思う。およそ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らるるので、決して愚昧卑屈でその域に達するものではない。大学の致知格物も、王陽明の致良知も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。かえって己の良知を増し、己の霊光を発揚するのである。修養を積めば積むほど、その人は事に当たり物に接して善悪が明瞭になって来るから、取捨去就に際して惑わず、しかもその裁決が流るるごとくなって来るのである。ゆえに修養が人を卑屈愚昧にすると言うは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すにおいて必要だということになるのである。これをもって修養は知識を軽んぜよというのではない。ただ今日の教育は、あまりに智を得るのみに趨って、精神を練磨することに乏しいから、それを補うための修養である。修養と修学を相容れぬごとくに思うのは大なる誤りである。

現代語訳

修養は人を卑屈にするという説は、礼節や敬虔といったものを無視するところから来る妄説だと思う。そもそも孝悌・忠信・仁義・道徳は日々の修養から得られるもので、愚かで卑屈なままでその境地に達するものでは決してない。『大学』の致知格物も、王陽明の致良知も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。むしろ自分の良知を増し、自分の内なる光を輝かせるのである。修養を積めば積むほど、その人は事に当たり物に接して善悪がはっきりしてくるから、取るか捨てるか、進むか退くかの際に迷わず、しかもその判断が水の流れるように滑らかになってくる。だから、修養が人を卑屈で愚かにするというのは大きな誤解であって、極端に言えば、修養は人の知恵を増すために必要だということになるのである。だからといって、修養は知識を軽んじよというのではない。ただ今日の教育はあまりに知識を得ることばかりに走り、精神を鍛えることに乏しいから、それを補うための修養なのである。修養と学問を相容れないもののように思うのは、大きな誤りである。

解説

第二の批判、修養は人を卑屈にするという説への反論である。渋沢は二つの古典を引く。『大学』の「致知格物」は物事の理を窮めて知を極めること、王陽明の「致良知」は人に生まれつき備わる善悪を知る心を発揮し尽くすことである。朱子学と陽明学という対立する二派をあえて並べ、どちらも修養だと言うところに、学派にこだわらない渋沢の実践的な読み方が出ている。要点は、修養が判断力を鍛えるという主張である。積むほど善悪がはっきりし、取捨去就に迷わず、裁決が流れるようになる。修養は人を鈍らせるどころか、決断を速くする。そして当時の教育が知識偏重であったことへの批判が添えられる。知識と人格は二者択一ではない。情報は多いのに決められない、という悩みへの一つの答えがここにある。

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