論語と算盤 / 人格と修養・東照公の修養
更に又注目すべきは仏教であります、仏教に就ても余程御注意が深く御穿鑿が届いたやうであります、初め三河の大樹寺に帰依して、大樹寺の僧侶と御親交があつたやうであります、而して大樹寺は浄土宗であります、尋いで芝の増上寺の住職をも召され、駿河にお移りになつてからは金地院の崇伝承兌抔を御用になり、後には東叡山を開いたる南光坊天海即ち慈眼大師号を受けた人である、此の天海は実に僧侶中の英雄である、英雄と言うては少し形容に過ぎるけれども、僧侶中の傑出した人であつた、殊に精力絶倫で、而かも百二十六まで生きたといふ人でありますから、大隈侯の予定より一年余計に生存した、東照公は深く此天海に御帰依になつて、屢次その説をお聴きなされたやうに見受けられます、此頃も南光坊天海の伝記を調べつ〻居りますが、駿河に於て公は数次その法談をお聴きなされた、
新字:更に又注目すべきは仏教であります、仏教に就ても余程御注意が深く御穿鑿が届いたやうであります、初め三河の大樹寺に帰依して、大樹寺の僧侶と御親交があつたやうであります、而して大樹寺は浄土宗であります、尋いで芝の増上寺の住職をも召され、駿河にお移りになつてからは金地院の崇伝承兌抔を御用になり、後には東叡山を開いたる南光坊天海即ち慈眼大師号を受けた人である、此の天海は実に僧侶中の英雄である、英雄と言うては少し形容に過ぎるけれども、僧侶中の傑出した人であつた、殊に精力絶倫で、而かも百二十六まで生きたといふ人でありますから、大隈侯の予定より一年余計に生存した、東照公は深く此天海に御帰依になつて、屡次その説をお聴きなされたやうに見受けられます、此頃も南光坊天海の伝記を調べつ〻居りますが、駿河に於て公は数次その法談をお聴きなされた、
書き下し
さらにまた注目すべきは仏教であります。仏教についてもよほど御注意が深く御穿鑿が届いたようであります。初め三河の大樹寺に帰依して、大樹寺の僧侶と御親交があったようであります。そして大樹寺は浄土宗であります。ついで芝の増上寺の住職をも召され、駿河にお移りになってからは金地院の崇伝承兌などを御用になり、後には東叡山を開いたる南光坊天海すなわち慈眼大師号を受けた人である。この天海は実に僧侶中の英雄である。英雄と言うては少し形容に過ぎるけれども、僧侶中の傑出した人であった。ことに精力絶倫で、しかも百二十六まで生きたという人でありますから、大隈侯の予定より一年余計に生存した。東照公は深くこの天海に御帰依になって、しばしばその説をお聴きなされたように見受けられます。この頃も南光坊天海の伝記を調べつつおりますが、駿河において公は数次その法談をお聴きなされた。
現代語訳
さらに注目すべきは仏教である。仏教についても、公はたいへん注意深く、詳しく調べが行き届いていたようだ。初めは三河の大樹寺に帰依し、大樹寺の僧侶と親しく交わっておられたようである。大樹寺は浄土宗の寺である。次いで芝の増上寺の住職も召され、駿河に移られてからは金地院の崇伝や承兌などを用い、のちには東叡山(寛永寺)を開いた南光坊天海、すなわち慈眼大師の号を受けた人を重んじた。この天海はまことに僧侶のなかの英雄である。英雄と言うと少し言い過ぎだが、僧侶のなかでも抜きん出た人であった。ことに精力が並外れていて、しかも百二十六歳まで生きたという人だから、大隈侯(大隈重信)が唱える人生百二十五歳説よりも一年余計に生きたことになる。東照公は深くこの天海に帰依され、たびたびその説をお聴きになったように見受けられる。私はこのごろも南光坊天海の伝記を調べているが、駿河において公は何度もその法談をお聴きになった。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養東照公に驚くべきは、神道仏教儒教等に大層力を入れられたことである。これに向かって種々の調査をなされて、その隆興を計ったことは容易でない。これも歴史家に相当の批評もありましょうが、私は特に文政を修められたについて深く敬服する。仏教には梵舜という人がありますが、これはあまり立派な学者ではなかったために、東照公も感心なさらぬで後に南光坊天海によって仏教をお取り調べになり、儒教では藤原惺窩を第一に聘し、ついでその弟子の林道春を御儒家として立派にその家を立てた。かつこの儒教を尊んだことはすこぶる重かったようであった。ことに東照公は論語中庸をよくお読みなすったことは歴史に明記してありますからして、諸君も御記憶でありましょうが。
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養長い年月の間にはどれほどであったか分明ならぬが、天海の伝記に書いてありました所では、ある年の九十日の間に六七十回の法談があったと言うてあります。たとい御隠居であっても、江戸から始終文書が往復する、京都からの往復も同様であろうから、なかなか閑散で能楽とか茶事三昧に日を暮らされたのではなかろう。そして寸暇あればその間に法談に御出座なすったのであろうと思います。徳川実記には詳しく書いてありませぬが、南光坊天海が常に顧問となって色々のお話を申し上げたということである。
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養これらの批評はこれだけで止めますが、とにかくこの御遺訓が論語より出たということは、諸君にも明瞭にお解りでありましょう。そのほかにもこの道徳についてはよほどお心を用いられたものと見える。元亀天正の頃はあの通り乱世が打ち続いて、世の中に文学趣味などはほとんど無くなり、仁義道徳の何者か分からぬという時に、誰が申し上げたともなく、とく既に文学を盛んにしなければならぬということについて御心を労され、しかもそれが根本的文学であって、切に仁義道徳を重んずる主義をもって全然朱子学を用いられたように思います。爾来追々と経学にも各派が生じて参りましたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主としている。東照公のこれらの御用意はいかなる御手際であるか、私は敬服に余りありというほかない。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではないしかるに日本においてはその空理空文の死学であった宋朝の儒教を利用したため、かえって実学の効験を発揮したのである。これをよく用いたのは徳川家康である。元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して、国内麻のごとくに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽くしておったのである。その中にて家康は大いに達観して、到底武のみをもって治国平天下の策とすべきで無いということを悟り、大いに心を文事に注いで、支那においては死学空文であった朱子の儒学を採ったのである。当初まず藤原惺窩を聘し、次いで林羅山を用いて、しきりに学問を実際に応用した。すなわち理論と実際とを調和し接近せしめたのである。現に家康が遺訓の一として今日まで人口に膾炙する『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に至る。
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養神君の遺訓と称して平仮名交じりの文章がある。すなわち「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず……云々」。私はかように能く覚えております。この遺訓はまったく論語から出ております。東照公が論語をよくお読みなすった証拠であります。「士は以て弘毅ならざるべからず、任重くして道遠し、仁以て己が任と為す、また重からずや、死して後已む、また遠からずや」。これは曾子という人の語で、論語の泰伯篇にあります。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とまったく同意味であります。また末段の「及ばざるは過ぎたるよりまされり」は、孔子の言から出たのです。そして孔子は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と言うたのを、公は「勝れり」と強くしたのです。
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『論語と算盤』処世と信条・士魂商才また人の世に処するの道は、なかなか至難のものである。けれども論語を熟読玩味して往けば大いに覚るところがあるのである。ゆえに私は平生孔子の教えを尊信すると同時に、論語を処世の金科玉条として、常に座右から離したことはない。我が邦でも賢人豪傑はたくさんにいる。その中でも最も戦争が上手であり、処世の道が巧みであったのは徳川家康公である。処世の道が巧みなればこそ、多くの英雄豪傑を威服して十五代の覇業を開くを得たので、二百余年間人々が安眠高枕することの出来たのは実に偉とすべきである。それゆえ処世の巧みな家康公であるから、種々の訓言を遺されている。かの『神君遺訓』なども、我々処世の道を実によく説かれている。そしてその『神君遺訓』を私が論語と照らし合わせて見たのに、実に符節を合するがごとくであって、やはり大部分は論語から出たものだということが分かった。例えば『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし』とあるのは、論語の『士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以為己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎』とある、この曾子の言葉とまことによく合っている。
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