論語と算盤 / 人格と修養・東照公の修養
長い年月の間にはどれほどであつたか分明ならぬが、天海の伝記に書いてありました所では、或年の九十日の間に六七十囘の法談があつたと云うてあります、縦ひ御隠居であつても、江戸から始終文書が往復する、京都からの往復も同様であらうから、中々閑散で能楽とか茶事三昧に日を暮されたのでは無からう、而して寸暇あれば其間に法談に御出座なすつたのであらうと思ひます、徳川実記には詳しく書いてありませぬが、南光坊天海が常に顧問となつて色々の御話を申上げたといふことである。
書き下し
長い年月の間にはどれほどであったか分明ならぬが、天海の伝記に書いてありました所では、ある年の九十日の間に六七十回の法談があったと言うてあります。たとい御隠居であっても、江戸から始終文書が往復する、京都からの往復も同様であろうから、なかなか閑散で能楽とか茶事三昧に日を暮らされたのではなかろう。そして寸暇あればその間に法談に御出座なすったのであろうと思います。徳川実記には詳しく書いてありませぬが、南光坊天海が常に顧問となって色々のお話を申し上げたということである。
現代語訳
長い年月のあいだにどれほどの回数になったかは分からないが、天海の伝記に書いてあったところでは、ある年の九十日のあいだに六、七十回の法談があったという。たとえ隠居の身であっても、江戸からは絶えず文書が行き来し、京都との往復も同じようにあっただろうから、決して暇をもてあまして能楽や茶の湯三昧で日を暮らされたのではあるまい。そのうえで、わずかな暇があれば法談の席にお出ましになったのであろうと思う。『徳川実紀』には詳しく書いていないが、南光坊天海が常に顧問となって、いろいろなお話を申し上げたということである。
解説
東照公の章の結びに近い段である。九十日で六、七十回というのは、ほぼ毎日のように法談を聴いた計算になる。家康は将軍職を秀忠に譲った後も駿府で大御所として実権を握り、政務の文書は絶えず往来していた。渋沢はその忙しさを想像したうえで、なお寸暇を割いて学んだ点を強調する。隠居を遊びの時間とせず、学ぶ時間に充てた、というのが渋沢の読みである。これは晩年まで講演を重ね、実業と社会事業に関わり続けた渋沢自身の姿とも重なる。修養は若者だけの課題ではなく、地位を得た者、第一線を退いた者こそ続けるべきものだ、という主張がこの逸話に託されている。多忙を学ばない理由にしない。一日のわずかな隙間を何に使うかが、長い目で人格の厚みを分ける。
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養東照公に驚くべきは、神道仏教儒教等に大層力を入れられたことである。これに向かって種々の調査をなされて、その隆興を計ったことは容易でない。これも歴史家に相当の批評もありましょうが、私は特に文政を修められたについて深く敬服する。仏教には梵舜という人がありますが、これはあまり立派な学者ではなかったために、東照公も感心なさらぬで後に南光坊天海によって仏教をお取り調べになり、儒教では藤原惺窩を第一に聘し、ついでその弟子の林道春を御儒家として立派にその家を立てた。かつこの儒教を尊んだことはすこぶる重かったようであった。ことに東照公は論語中庸をよくお読みなすったことは歴史に明記してありますからして、諸君も御記憶でありましょうが。
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養さらにまた注目すべきは仏教であります。仏教についてもよほど御注意が深く御穿鑿が届いたようであります。初め三河の大樹寺に帰依して、大樹寺の僧侶と御親交があったようであります。そして大樹寺は浄土宗であります。ついで芝の増上寺の住職をも召され、駿河にお移りになってからは金地院の崇伝承兌などを御用になり、後には東叡山を開いたる南光坊天海すなわち慈眼大師号を受けた人である。この天海は実に僧侶中の英雄である。英雄と言うては少し形容に過ぎるけれども、僧侶中の傑出した人であった。ことに精力絶倫で、しかも百二十六まで生きたという人でありますから、大隈侯の予定より一年余計に生存した。東照公は深くこの天海に御帰依になって、しばしばその説をお聴きなされたように見受けられます。この頃も南光坊天海の伝記を調べつつおりますが、駿河において公は数次その法談をお聴きなされた。
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養これらの批評はこれだけで止めますが、とにかくこの御遺訓が論語より出たということは、諸君にも明瞭にお解りでありましょう。そのほかにもこの道徳についてはよほどお心を用いられたものと見える。元亀天正の頃はあの通り乱世が打ち続いて、世の中に文学趣味などはほとんど無くなり、仁義道徳の何者か分からぬという時に、誰が申し上げたともなく、とく既に文学を盛んにしなければならぬということについて御心を労され、しかもそれが根本的文学であって、切に仁義道徳を重んずる主義をもって全然朱子学を用いられたように思います。爾来追々と経学にも各派が生じて参りましたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主としている。東照公のこれらの御用意はいかなる御手際であるか、私は敬服に余りありというほかない。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない修養はどこまでやらねばならぬかと言うに、これは際限がないのである。けれども空理空論に走ることは最も注意せねばならぬ。修養は何も理論ではないので、実際に行うべきことであるから、どこまでも実際と密接の関係を保って進まねばならぬ。さてこの実際と学理の調和ということは、特に述べておかねばならぬのである。
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養神君の遺訓と称して平仮名交じりの文章がある。すなわち「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず……云々」。私はかように能く覚えております。この遺訓はまったく論語から出ております。東照公が論語をよくお読みなすった証拠であります。「士は以て弘毅ならざるべからず、任重くして道遠し、仁以て己が任と為す、また重からずや、死して後已む、また遠からずや」。これは曾子という人の語で、論語の泰伯篇にあります。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とまったく同意味であります。また末段の「及ばざるは過ぎたるよりまされり」は、孔子の言から出たのです。そして孔子は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と言うたのを、公は「勝れり」と強くしたのです。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではないしかるに日本においてはその空理空文の死学であった宋朝の儒教を利用したため、かえって実学の効験を発揮したのである。これをよく用いたのは徳川家康である。元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して、国内麻のごとくに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽くしておったのである。その中にて家康は大いに達観して、到底武のみをもって治国平天下の策とすべきで無いということを悟り、大いに心を文事に注いで、支那においては死学空文であった朱子の儒学を採ったのである。当初まず藤原惺窩を聘し、次いで林羅山を用いて、しきりに学問を実際に応用した。すなわち理論と実際とを調和し接近せしめたのである。現に家康が遺訓の一として今日まで人口に膾炙する『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に至る。
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