論語と算盤 / 人格と修養・東照公の修養
是等の批評はこれだけで止めますが、兎に角この御遺訓が論語より出たといふことは、諸君にも明瞭にお解りでありませう、その他にも此の道徳については余程お心を用ゐられたものと見える、元亀天正の頃はあの通り乱世が打続いて、世の中に文学趣味などは殆んど無くなり、仁義道徳の何者か分らぬといふ時に、誰が申上げたともなく、夙く既に文学を盛にしなければならぬといふことに就て御心を労され、而かもそれが根本的文学であつて、切に仁義道徳を重んずる主義を以て全然朱子学を用ゐられたやうに思ひます、爾来追々と経学にも各派が生じて参りましたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主として居る、東照公の是等の御用意は如何なる御手際であるか、私は敬服に余りありといふ外ない、
書き下し
これらの批評はこれだけで止めますが、とにかくこの御遺訓が論語より出たということは、諸君にも明瞭にお解りでありましょう。そのほかにもこの道徳についてはよほどお心を用いられたものと見える。元亀天正の頃はあの通り乱世が打ち続いて、世の中に文学趣味などはほとんど無くなり、仁義道徳の何者か分からぬという時に、誰が申し上げたともなく、とく既に文学を盛んにしなければならぬということについて御心を労され、しかもそれが根本的文学であって、切に仁義道徳を重んずる主義をもって全然朱子学を用いられたように思います。爾来追々と経学にも各派が生じて参りましたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主としている。東照公のこれらの御用意はいかなる御手際であるか、私は敬服に余りありというほかない。
現代語訳
これらの批評はこれくらいにしておくが、ともかくこの御遺訓が論語から出たということは、諸君にもはっきりお分かりだろう。そのほかにも、公はこの道徳についてよほど心を用いられたものと見える。元亀・天正のころはあのとおり乱世が打ち続き、世の中から学問を好む気風はほとんど消え、仁義道徳が何物であるかも分からないという時代であった。そのときに、誰が進言したというのでもなく、早くから学問を盛んにしなければならないと心を砕かれた。しかもそれは根本の学問であって、仁義道徳を切に重んじる主義から、もっぱら朱子学を用いられたように思う。その後しだいに経学にもさまざまな派が生まれてきたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主としている。東照公のこうした御配慮がどれほどの手際であったか、私は敬服のほかないというしかない。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養東照公に驚くべきは、神道仏教儒教等に大層力を入れられたことである。これに向かって種々の調査をなされて、その隆興を計ったことは容易でない。これも歴史家に相当の批評もありましょうが、私は特に文政を修められたについて深く敬服する。仏教には梵舜という人がありますが、これはあまり立派な学者ではなかったために、東照公も感心なさらぬで後に南光坊天海によって仏教をお取り調べになり、儒教では藤原惺窩を第一に聘し、ついでその弟子の林道春を御儒家として立派にその家を立てた。かつこの儒教を尊んだことはすこぶる重かったようであった。ことに東照公は論語中庸をよくお読みなすったことは歴史に明記してありますからして、諸君も御記憶でありましょうが。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではないしかるに日本においてはその空理空文の死学であった宋朝の儒教を利用したため、かえって実学の効験を発揮したのである。これをよく用いたのは徳川家康である。元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して、国内麻のごとくに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽くしておったのである。その中にて家康は大いに達観して、到底武のみをもって治国平天下の策とすべきで無いということを悟り、大いに心を文事に注いで、支那においては死学空文であった朱子の儒学を採ったのである。当初まず藤原惺窩を聘し、次いで林羅山を用いて、しきりに学問を実際に応用した。すなわち理論と実際とを調和し接近せしめたのである。現に家康が遺訓の一として今日まで人口に膾炙する『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に至る。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではないおのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるにまされり』について考えて見るに、皆経学中に求めたものである。多くは論語中の警句中より成立している。当時殺伐の人心を慰安して、よく三百年の太平を致した所以のものは、けだし学問の活用、すなわち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるによることと思うのである。しかも家康がかくまで朱子の儒学を採ってこれを実際に応用したけれども、元禄享保の頃となっては、次第に種々の学派を生じ、空理を弄ぶようになって来て、有名なる儒者は多かったけれども、これを実際と密着せしめたものは甚だ稀で、わずかに熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒の数人に過ぎない。徳川の末の微々として振るわなくなって来たのも、やはりこの調和を失した結果であろうと思うのである。
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養神君の遺訓と称して平仮名交じりの文章がある。すなわち「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず……云々」。私はかように能く覚えております。この遺訓はまったく論語から出ております。東照公が論語をよくお読みなすった証拠であります。「士は以て弘毅ならざるべからず、任重くして道遠し、仁以て己が任と為す、また重からずや、死して後已む、また遠からずや」。これは曾子という人の語で、論語の泰伯篇にあります。「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」とまったく同意味であります。また末段の「及ばざるは過ぎたるよりまされり」は、孔子の言から出たのです。そして孔子は「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と言うたのを、公は「勝れり」と強くしたのです。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない要するに、理論と実際、学問と事業とが互いに並行して発達しないと、国家が真に興隆せぬのである。いかほど一方が発達しても、他の一方がこれに伴わなければ、その国は世界の列強間に伍することは出来ぬと思われる。事実ばかりで満足とは言われず、また学理のみでは立つことが出来ないので、この両者がよく調和し密着する時が、すなわち国にすれば文明富強となり、人にすれば完全なる人格ある者となるのである。
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『論語と算盤』処世と信条・士魂商才また人の世に処するの道は、なかなか至難のものである。けれども論語を熟読玩味して往けば大いに覚るところがあるのである。ゆえに私は平生孔子の教えを尊信すると同時に、論語を処世の金科玉条として、常に座右から離したことはない。我が邦でも賢人豪傑はたくさんにいる。その中でも最も戦争が上手であり、処世の道が巧みであったのは徳川家康公である。処世の道が巧みなればこそ、多くの英雄豪傑を威服して十五代の覇業を開くを得たので、二百余年間人々が安眠高枕することの出来たのは実に偉とすべきである。それゆえ処世の巧みな家康公であるから、種々の訓言を遺されている。かの『神君遺訓』なども、我々処世の道を実によく説かれている。そしてその『神君遺訓』を私が論語と照らし合わせて見たのに、実に符節を合するがごとくであって、やはり大部分は論語から出たものだということが分かった。例えば『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし』とあるのは、論語の『士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以為己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎』とある、この曾子の言葉とまことによく合っている。
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