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論語と算盤 / 人格と修養・須らく其の原因を究むべし

昔時軍人の美談として世に伝へられて居る呉起が、其の部下の兵士の創の膿を吸うて癒してやつた時に、其の武士は大に喜びて、この創が癒えたらば将軍の為に戦場で命を棄てねばならぬと云つて感じた、すると其母の言ふには、人情左もあるべき事であるが、汝の兄も其通りにして終に討死したとて歎いたといふ話がある、呉起が兵士の膿を吸ふたのは衷心から出たのか、或は一の術数でありはせぬかと、其の母は疑うて歎いたのではあるまいかと思ふ、然るに乃木将軍に至つては、全く天真爛漫たる衷情から兵士を犒らはれたのである、単に軍隊に居られる時のみ然るに非ずして、学習院に院長として居られた時にも、掬するばかりの情愛が総ての方面に現はれて居る、左らば其の平生は如何にやといふと、独り武ばかりを誇りとする人に非ずして、文雅にも富まれて居る、如何に忠誠の人でも唯武骨一片で、花を見ても面白くない月を見ても感じないといふ人は困る、

新字:昔時軍人の美談として世に伝へられて居る呉起が、其の部下の兵士の創の膿を吸うて癒してやつた時に、其の武士は大に喜びて、この創が癒えたらば将軍の為に戦場で命を棄てねばならぬと云つて感じた、すると其母の言ふには、人情左もあるべき事であるが、汝の兄も其通りにして終に討死したとて嘆いたといふ話がある、呉起が兵士の膿を吸ふたのは衷心から出たのか、或は一の術数でありはせぬかと、其の母は疑うて嘆いたのではあるまいかと思ふ、然るに乃木将軍に至つては、全く天真爛漫たる衷情から兵士を犒らはれたのである、単に軍隊に居られる時のみ然るに非ずして、学習院に院長として居られた時にも、掬するばかりの情愛が総ての方面に現はれて居る、左らば其の平生は如何にやといふと、独り武ばかりを誇りとする人に非ずして、文雅にも富まれて居る、如何に忠誠の人でも唯武骨一片で、花を見ても面白くない月を見ても感じないといふ人は困る、

書き下し

昔時軍人の美談として世に伝えられている呉起が、その部下の兵士の創の膿を吸うて癒してやった時に、その武士は大いに喜びて、この創が癒えたらば将軍のために戦場で命を棄てねばならぬと言って感じた。するとその母の言うには、人情さもあるべき事であるが、汝の兄もその通りにしてついに討死したとて嘆いたという話がある。呉起が兵士の膿を吸うたのは衷心から出たのか、あるいは一の術数でありはせぬかと、その母は疑うて嘆いたのではあるまいかと思う。しかるに乃木将軍に至っては、全く天真爛漫たる衷情から兵士を労われたのである。単に軍隊におられる時のみしかるにあらずして、学習院に院長としておられた時にも、掬するばかりの情愛がすべての方面に現れている。さらばその平生はいかにやというと、独り武ばかりを誇りとする人にあらずして、文雅にも富まれている。いかに忠誠の人でもただ武骨一片で、花を見ても面白くない月を見ても感じないという人は困る。

現代語訳

昔の軍人の美談として世に伝えられている話に、呉起が部下の兵士の傷の膿を吸って治してやったところ、その兵士は大いに喜んで、この傷が治ったら将軍のために戦場で命を捨てなければならないと感じた。するとその母が言うには、人情としてはもっともなことだが、おまえの兄も同じようにしてもらって、ついに戦死したのだ、と嘆いたという。呉起が兵士の膿を吸ったのは真心から出たことだったのか、あるいは一種の術策ではなかったのかと、その母は疑って嘆いたのではないかと思う。ところが乃木将軍になると、まったく飾り気のない真心から兵士をいたわられたのである。それは軍隊におられた時だけではなく、学習院の院長をしておられた時にも、すくい取れるほどの情愛があらゆる方面に表れている。では、その平生はどうかと言えば、ただ武ばかりを誇りとする人ではなく、文雅にも富んでおられた。どれほど忠誠な人でも、ただ武骨一辺倒で、花を見ても面白くない、月を見ても何も感じないという人は困るのである。

解説

渋沢は乃木の兵への情を、中国の故事と対比して際立たせる。『史記』孫子呉起列伝によれば、戦国時代の名将呉起は兵卒と同じものを食べ、兵の腫れ物の膿を自ら吸った。それを聞いた兵の母は、夫も同じことをされて敵に背を見せず戦死した、今度は息子が死ぬ、と泣いた。本文では兄の話になっているが、渋沢の要点は、呉起の情けが真心か術数かを母が疑ったのではないか、という読みにある。部下を動かすための優しさと、真心からの優しさは、外形は同じでも受け取る側には違いが伝わる。乃木の労りは天真爛漫な衷情から出たもので、学習院長として生徒に接したときにも同じ情愛が表れていた、と渋沢は言う。そのうえで、武骨一辺倒で花も月も感じない人は困る、と文雅の必要へ話を進める。部下への配慮が管理の技法になっていないか、と問いかける段である。

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