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論語と算盤 / 人格と修養・平生の心掛が大切

総じて世の中のことは心の儘にならぬが多い、独り形の上に表はれて居る事物ばかりでなく、心に属することも間々さういふことがある、例へば、一度斯うと心の中に堅く決心したことでも、何か不図したことから俄に変ずる、人から勧められて遂に其の気になると云つたやうな事もあるが、それが必ずしも悪意の誘惑でないまでも、心の遷転から起ることで、斯の如きは意志の弱いのであると謂はねばなるまい、自ら決心して動かぬと覚悟して居ながら、人の言葉によりて変ずるが如きは、固より意志の鍛錬の出来て居るものではない、兎角平生の心掛が大切である、平素その意中に『斯うせよ』とか『斯うせねばならぬ』とか、事物に対する心掛が的確に決つて居るならば、如何に他人が巧妙に言葉を操つても、浮とそれに乗せられるやうなことはない訳だ、故に何人も問題の起らぬ時に於て其の心掛を錬つて置き、而して事に会し物に触れた時、それを順序よく進めるが肝要である。

書き下し

総じて世の中のことは心のままにならぬが多い。独り形の上に表れている事物ばかりでなく、心に属することも間々そういうことがある。例えば、一度こうと心の中に堅く決心したことでも、何かふとしたことからにわかに変ずる。人から勧められてついにその気になると言ったような事もあるが、それが必ずしも悪意の誘惑でないまでも、心の遷転から起こることで、かくのごときは意志の弱いのであると言わねばなるまい。自ら決心して動かぬと覚悟していながら、人の言葉によりて変ずるがごときは、もとより意志の鍛錬の出来ているものではない。とかく平生の心掛けが大切である。平素その意中に『こうせよ』とか『こうせねばならぬ』とか、事物に対する心掛けが的確に決まっているならば、いかに他人が巧妙に言葉を操っても、うかとそれに乗せられるようなことはない訳だ。ゆえに何人も問題の起こらぬ時においてその心掛けを錬っておき、そして事に会し物に触れた時、それを順序よく進めるが肝要である。

現代語訳

総じて、世の中のことは思い通りにならないことが多い。形に表れている物事ばかりでなく、心に属することにも、ときどきそういうことがある。たとえば、一度こうと心の中で固く決心したことでも、何かふとしたことから急に変わってしまう。人に勧められて、ついにその気になるといったこともあるが、それが必ずしも悪意の誘惑ではないにしても、心の移り変わりから起こることで、このようなのは意志が弱いのだと言わなければならないだろう。自分で決心して動かないと覚悟していながら、人の言葉によって変わってしまうようなのは、もとより意志の鍛錬ができている者ではない。とかく平生の心がけが大切である。ふだんから心の中に「こうせよ」とか「こうしなければならない」とか、物事に対する心がけがはっきりと決まっていれば、どれほど他人が巧みに言葉を操っても、うかうかとそれに乗せられるようなことはないはずだ。だから誰でも、問題が起こっていない時にその心がけを練っておき、そして事にあたり物に触れた時に、それを順序よく進めていくことが肝要である。

解説

「平生の心掛が大切」の章は、決心の揺らぎから説き起こされる。固く決めたことでも、ふとしたことや人の勧めで変わってしまう。それが悪意の誘惑でなくとも、心の遷転によるものなら意志が弱いのだ、と渋沢は手厳しい。処方は明快で、問題が起きていない平時に心がけを練っておき、事に臨んだらそれに沿って順序よく進めることである。「こうせよ」「こうせねばならぬ」という判断の基準をあらかじめ持っていれば、巧みな言葉にも乗せられない。事が起きてから考えるのでは、その場の空気や相手の弁舌に流されやすいという人間観がある。論語で孔子が「造次にも必ず是に於てし、顛沛にも必ず是に於てす」(里仁篇)と、慌ただしい時にも仁を離れないと言うのに通じる。判断の原則を平時に言葉にしておくことは、個人にも組織にも有効な備えである。

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