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論語と算盤 / 人格と修養・修養は理論ではない

以上は往時の事例であるが、今日でも両者の調和不調和が其の事物の盛衰を示して居ることは、諸君のよく知られる所と思ふ、世界の二三等国に就て見ると明かである、又一等国中にも、現に両者が其の並行を失はんとしつ〻ある国もあるやうに思はれる。翻つて帝国は如何と言へば、未だ決して十分なる調和を得て居るといふことは出来ない、のみならず、動ともすれば離隔せんとする傾向さへ見える、之を思へば実に国家の将来が案じられるのである。故に修養を主とする者は、大に爰に鑑みる所があつて、決して奇矯に趨らず、中庸を失せず、常に穏健なる志操を保持して進まれんことを衷心より希望して止まぬのである、換言すれば、今日の修養は、力行勤勉を主として智徳の完全を得るのにある、即ち精神的方面に力を注ぐと共に、智識の発達に勉めねばならぬ、而して修養が、単に自分一個の為のみではなく、一邑一郷、大にしては国運の興隆に貢献するのでなければならぬ。

書き下し

以上は往時の事例であるが、今日でも両者の調和不調和がその事物の盛衰を示していることは、諸君のよく知られる所と思う。世界の二三等国について見ると明らかである。また一等国中にも、現に両者がその並行を失わんとしつつある国もあるように思われる。翻って帝国はいかがと言えば、いまだ決して十分なる調和を得ているということは出来ない。のみならず、ややもすれば離隔せんとする傾向さえ見える。これを思えば実に国家の将来が案じられるのである。ゆえに修養を主とする者は、大いにここに鑑みる所があって、決して奇矯に趨らず、中庸を失せず、常に穏健なる志操を保持して進まれんことを衷心より希望してやまぬのである。換言すれば、今日の修養は、力行勤勉を主として智徳の完全を得るのにある。すなわち精神的方面に力を注ぐと共に、智識の発達に勉めねばならぬ。そして修養が、単に自分一個のためのみではなく、一邑一郷、大にしては国運の興隆に貢献するのでなければならぬ。

現代語訳

以上は昔の事例であるが、今日でも、この両者が調和しているかどうかが物事の盛衰を示していることは、諸君もよく知っているところだと思う。世界の二等国、三等国について見れば明らかである。また一等国の中にも、現に両者がその並行を失おうとしつつある国もあるように思われる。翻ってわが帝国はどうかと言えば、まだ決して十分な調和を得ているとは言えない。そればかりか、ややもすれば両者が離れていこうとする傾向さえ見える。これを思えば、実に国家の将来が案じられる。だから修養を主とする人は、大いにこの点を省みて、決して奇抜な極端に走らず、中庸を失わず、常に穏健な志操を保って進まれることを、心の底から希望してやまない。言い換えれば、今日の修養は、力を尽くして勤勉に励むことを主として、知恵と徳とを完全に備えることにある。つまり精神的な面に力を注ぐとともに、知識の発達にも努めなければならない。そして修養は、単に自分一人のためだけではなく、一つの村や郷、大きくは国運の興隆に貢献するものでなければならないのである。

解説

章の結びで渋沢は、歴史の教訓を当時の日本に向ける。学理と実際の調和・不調和は今日でも国の盛衰を示し、一等国の中にさえ並行を失いつつある国がある。日本も十分な調和を得ておらず、むしろ離れようとする傾向さえある、と憂える。そのうえで修養する者への注文を三つ挙げる。奇矯に走らず中庸を失わないこと、力行勤勉を主として智と徳をともに完全にすること、そして修養を自分一個のためでなく、郷里や国の興隆に役立てることである。明治末から大正にかけては、修養書や修養団体が流行し、精神論に偏った修養や、世間から離れた奇矯な実践も見られた。渋沢はその風潮に対し、精神と知識を並べ、個人と社会を結ぶ修養を説いている。自己研鑽が自己満足に閉じず、周りの成果に結びついているかを問う段である。

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