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論語と算盤 / 人格と修養・修養は理論ではない

おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるにまされり』に就て考へて見るに、皆経学中に求めたものである、多くは論語中の警句中より成立して居る、当時殺伐の人心を慰安して、よく三百年の太平を致した所以のものは、蓋し学問の活用、即ち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるに由ること〻思ふのである、而かも家康が此くまで朱子の儒学を採つて之を実際に応用したけれども、元祿享保の頃となつては、次第に種々の学派を生じ、空理を弄ぶやうになつて来て、有名なる儒者は多かつたけれども、之を実際と密着せしめたものは甚だ稀で、僅かに熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒の数人に過ぎない、徳川の末の微々として振はなくなつて来たのも、矢張り此の調和を失した結果であらうと思ふのである。

新字:おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるにまされり』に就て考へて見るに、皆経学中に求めたものである、多くは論語中の警句中より成立して居る、当時殺伐の人心を慰安して、よく三百年の太平を致した所以のものは、蓋し学問の活用、即ち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるに由ること〻思ふのである、而かも家康が此くまで朱子の儒学を採つて之を実際に応用したけれども、元禄享保の頃となつては、次第に種々の学派を生じ、空理を弄ぶやうになつて来て、有名なる儒者は多かつたけれども、之を実際と密着せしめたものは甚だ稀で、僅かに熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒の数人に過ぎない、徳川の末の微々として振はなくなつて来たのも、矢張り此の調和を失した結果であらうと思ふのである。

書き下し

おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるにまされり』について考えて見るに、皆経学中に求めたものである。多くは論語中の警句中より成立している。当時殺伐の人心を慰安して、よく三百年の太平を致した所以のものは、けだし学問の活用、すなわち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるによることと思うのである。しかも家康がかくまで朱子の儒学を採ってこれを実際に応用したけれども、元禄享保の頃となっては、次第に種々の学派を生じ、空理を弄ぶようになって来て、有名なる儒者は多かったけれども、これを実際と密着せしめたものは甚だ稀で、わずかに熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒の数人に過ぎない。徳川の末の微々として振るわなくなって来たのも、やはりこの調和を失した結果であろうと思うのである。

現代語訳

己を責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり」について考えてみると、みな経学の中に求めたものである。多くは論語の中の警句から成り立っている。当時の殺伐とした人心を慰め、よく三百年の太平をもたらしたゆえんは、思うに学問の活用、すなわち実際と理論とを調和させ、きわめて密接にしたことによるのだと思う。しかも、家康がこれほどまでに朱子の儒学を採り入れて実際に応用したにもかかわらず、元禄・享保の頃になると、しだいにさまざまな学派が生まれ、空理をもてあそぶようになってきて、有名な儒者は多かったけれども、これを実際と密着させた者はきわめて稀で、わずかに熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒の数人にすぎない。徳川の末期に幕府が衰えて振るわなくなってきたのも、やはりこの調和を失った結果であろうと思うのである。

解説

遺訓の結び「及ばざるは過ぎたるにまされり」は論語先進篇の「過ぎたるは猶及ばざるがごとし」を踏まえ、「おのれを責めて人をせむるな」も衛霊公篇の「躬自ら厚くして薄く人を責む」に通じる。渋沢が遺訓の多くを論語の警句から成ると見るのはこのためである。そして三百年の太平の理由を、学問を実際と密着させた家康の活用に求める。ところが元禄・享保以後、学派が分かれて空理を弄ぶようになり、実際と結びつけたのは熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒ら数人にすぎない、と。蕃山は岡山藩で治水と救荒に、兼山は土佐藩で新田開発と港湾に、白石は幕政の財政と貨幣改革に、益軒は庶民向けの養生・教訓書に、それぞれ学を用いた人々である。幕末の衰退もこの調和の喪失の結果だと渋沢は見る。学問の盛衰を、現場との距離で測る歴史観である。

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