論語と算盤 / 人格と修養・人格の標準は如何
是は事実か否かは知らないが、人間と禽獣との相違は、極めて僅少に過ぎぬといふことは、此の一話によつても解かるのである、四肢五体具足して人間の形を成して居るからとて、我々は是を以て直ちに人なりと言ふことは出来ぬのである、人の禽獣に異なる所は、徳を修め、智を啓き、世に有益なる貢献を為し得るに至つて、初めて其れが真人と認めらる〻のである、一言にして之を覆へば、万物の霊長たる能力ある者に就てのみ、初めて人たるの真価ありと言ひたいのである、従つて人の真価を極むる標準も、此の意味に就て論ぜんとするのである。
書き下し
これは事実か否かは知らないが、人間と禽獣との相違は、極めて僅少に過ぎぬということは、この一話によっても解かるのである。四肢五体具足して人間の形を成しているからとて、我々はこれをもって直ちに人なりと言うことは出来ぬのである。人の禽獣に異なる所は、徳を修め、智を啓き、世に有益なる貢献をなし得るに至って、初めてそれが真人と認めらるるのである。一言にしてこれを覆えば、万物の霊長たる能力ある者についてのみ、初めて人たるの真価ありと言いたいのである。したがって人の真価を極むる標準も、この意味について論ぜんとするのである。
現代語訳
これが事実かどうかは知らないが、人間と鳥獣との違いがごくわずかなものにすぎないということは、この一つの話によっても分かる。手足や体がそろって人間の形をしているからといって、私たちはそれだけでただちに人だと言うことはできない。人が鳥獣と異なるところは、徳を修め、知恵を開き、世の中に有益な貢献ができるようになって、はじめて真の人と認められる点にある。一言でまとめれば、万物の霊長にふさわしい能力を持つ者についてのみ、はじめて人としての真価があると言いたいのである。したがって、人の真価を見きわめる基準も、この意味に即して論じようと思う。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何人を見て万人一様なりとするには一理ある。万人皆相同じからずとするのもまた論拠がある。したがって人の真価を定むるにも、この両者の論理を研究して適当の判断を下さねばならぬから、随分困難のことではあるが、その標準を立つる前に、いかなる者を人というか、まずそれを定めてかからねばなるまいと思う。しかしこれがなかなかの困難事で、人と禽獣とはどこが違うかというような問題も、昔は簡単に説明されたであろうが、学問の進歩に従って、それすらますます複雑な説明を要するに至ったのである。昔欧州のある国王が、人類天然の言語はいかなるものであるかを知りたいと思って、二人の嬰児を一室に収容し、人間の言語を少しも聞かせないようにして、何等の教育も与えずに置き、成長の後、連れ出して見たが、二人とも少しも人間らしい言語を発することが出来ず、ただ獣のような不明瞭な音を発するのみであったという。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何人は万物の霊長であるということは、人皆自ら信じている所である。同じく霊長であるならば、人々相互の間における何等の差異なかるべきはずなるに、世間多数の人を見れば、上を見るも方図がなく、下を見るも際限なしと言うている。現に我々の交際する人々は、上王公貴人より、下匹夫匹婦に至るまで、その差異もまた甚だしいのである。一郷一村に見るも、すでに大分の差があり、一県一州に見れば、その差はさらに大きく、これを一国に見ればますます懸隔して、ほとんど底止する所なきに至るのである。人すでにその智愚尊卑においてかように差等を有するとすれば、その価値を定むるもまた容易のことではない。いわんやこれに明確なる標準を附するにおいてをやである。しかし人は動物中の霊長としてこれを認むるならば、その間には自ずと優劣のあるべきはずである。ことに人は棺を蓋うて後、論定まるという古言より見れば、どこかに標準を定め得る点があると思われる。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何けだし人を評して優劣を論ずることは、世間の人の好む所であるが、よくその真相を穿つの困難はこれをもって知らるるのであるから、人の真価というものは容易に判定さるべきものではない。真に人を評論せんとならば、その富貴功名に属するいわゆる成敗を第二に置き、よくその人の世に尽したる精神と効果とによってすべきものである。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何しかし孔子自身は果たしてさように下級生と感じたであろうか。文王、武王、周公、孔子皆その分に満足してその生を終えたとするならば、富をもって人の真価の標準とし、孔子をもって人間の下級生なりとなすのは、適当なる評価と言い得るであろうか。これをもって人を評価するの困難を知るべきである。よくその人のもってする所を視、その由る所を観て、そして後その人の行為が世道人心にいかなる効果ありしかを察せざれば、これを評定することは出来ぬと思う。
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふおよそ人の世に立つについて最も肝要なるものは、智慧を増して行かねばならぬ。すべて一身の発達、国家の公益を図るにも、智識というものがなければ進んで行くことは出来ぬけれども、しかしそれ以上に人は人格というものを養って行かなくてはならぬ。いわゆる人格の修養、これは極めて大切なことだろうと思う。ただし人格という定義はいかに論断せらるるか知らないが、稀には少しは非常識ともいうべき英雄豪傑に人格崇高な人があるから、果たして人格と常識が必ず一致するものであろうかどうか。人が完全に役に立ち、公にも私にも、必要にしていわゆる真才真智というのは、多くは常識の発達にあると言っても誤りないと思うのである。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何古来歴史中の人々、何者かよく人として価値ある生活をなしたであろう。往昔支那の周時代にあっては、文武両王並び起って殷王の無道を誅し、天下を統一して専ら徳政を施かれた。そして後世文武両王をもって道徳高き聖主と称している。して見れば文武両王のごときは、功名も富貴も共に得られた人と言うべきである。しかるに文王武王周公孔子と並び称せられている夫子はいかがである。また聖人として崇められ、孔夫子に対して四配と言える顔回、曾子、子思、孟子のごときも、聖人に亜ぐものとして推称せられているに関わらず、これらの人々は終生道のために天下に遊説して、その一生を捧げたものである。けれども戦国の際、一小国家すら自ら有することは出来なかった。されど徳においては文武に譲らずして、その名もまた高いものであったが、富貴という方面からこれを物質的に評するならば、実に雲泥霄壌の差ありて比較にならないのである。ゆえにもし富を標準として人の真価を論ずれば、孔子は確かに下級生である。
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