論語と算盤 / 人格と修養・人格の標準は如何
人は万物の霊長であるといふことは、人皆自ら信じて居る所である、同じく霊長であるならば、人々相互の間に於ける何等の差異なかるべき筈なるに、世間多数の人を見れば、上を見るも方図がなく、下を見るも際限なしと云うて居る、現に我々の交際する人人は、上王公貴人より、下匹夫匹婦に至るまで、其の差異も亦甚しいのである、一郷一村に見るも、既に大分の差があり、一県一州に見れば、其の差は更に大きく、之を一国に見れば益々懸隔して、殆んど底止する所なきに至るのである。人既に其の智愚尊卑に於て斯様に差等を有するとすれば、其の価値を定むるも亦容易のことでは無い、況んや之に明確なる標準を附するに於てをやである、併し人は動物中の霊長として之を認むるならば、其間には自ら優劣のあるべき筈である、殊に人は棺を蓋うて後、論定まるといふ古言より見れば、何所かに標準を定め得る点があると思はれる。
書き下し
人は万物の霊長であるということは、人皆自ら信じている所である。同じく霊長であるならば、人々相互の間における何等の差異なかるべきはずなるに、世間多数の人を見れば、上を見るも方図がなく、下を見るも際限なしと言うている。現に我々の交際する人々は、上王公貴人より、下匹夫匹婦に至るまで、その差異もまた甚だしいのである。一郷一村に見るも、すでに大分の差があり、一県一州に見れば、その差はさらに大きく、これを一国に見ればますます懸隔して、ほとんど底止する所なきに至るのである。人すでにその智愚尊卑においてかように差等を有するとすれば、その価値を定むるもまた容易のことではない。いわんやこれに明確なる標準を附するにおいてをやである。しかし人は動物中の霊長としてこれを認むるならば、その間には自ずと優劣のあるべきはずである。ことに人は棺を蓋うて後、論定まるという古言より見れば、どこかに標準を定め得る点があると思われる。
現代語訳
人は万物の霊長であるということは、誰もが自ら信じているところである。同じく霊長であるなら、人と人との間に何の違いもないはずなのに、世間の多くの人を見ると、上を見ればきりがなく、下を見ても際限がないと言われる。現に私たちが交わる人々は、上は王侯貴人から、下は名もない庶民の男女に至るまで、その違いもまた甚だしいのである。一つの郷や村で見ても、すでにかなりの差があり、一つの県や州で見ればその差はさらに大きく、一国で見ればますますかけ離れて、ほとんど行き着くところがないほどになる。人が知恵と愚かさ、身分の高さ低さにおいて、このように差があるとすれば、その価値を定めることもまた容易ではない。まして、そこに明確な基準を付けるとなればなおさらである。しかし、人を動物の中の霊長として認めるなら、その間にはおのずと優劣があるはずである。とくに「人は棺を蓋いて後に論定まる」という古い言葉から見れば、どこかに基準を定めうる点があると思われる。
解説
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何けだし人を評して優劣を論ずることは、世間の人の好む所であるが、よくその真相を穿つの困難はこれをもって知らるるのであるから、人の真価というものは容易に判定さるべきものではない。真に人を評論せんとならば、その富貴功名に属するいわゆる成敗を第二に置き、よくその人の世に尽したる精神と効果とによってすべきものである。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何これは事実か否かは知らないが、人間と禽獣との相違は、極めて僅少に過ぎぬということは、この一話によっても解かるのである。四肢五体具足して人間の形を成しているからとて、我々はこれをもって直ちに人なりと言うことは出来ぬのである。人の禽獣に異なる所は、徳を修め、智を啓き、世に有益なる貢献をなし得るに至って、初めてそれが真人と認めらるるのである。一言にしてこれを覆えば、万物の霊長たる能力ある者についてのみ、初めて人たるの真価ありと言いたいのである。したがって人の真価を極むる標準も、この意味について論ぜんとするのである。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何人を見て万人一様なりとするには一理ある。万人皆相同じからずとするのもまた論拠がある。したがって人の真価を定むるにも、この両者の論理を研究して適当の判断を下さねばならぬから、随分困難のことではあるが、その標準を立つる前に、いかなる者を人というか、まずそれを定めてかからねばなるまいと思う。しかしこれがなかなかの困難事で、人と禽獣とはどこが違うかというような問題も、昔は簡単に説明されたであろうが、学問の進歩に従って、それすらますます複雑な説明を要するに至ったのである。昔欧州のある国王が、人類天然の言語はいかなるものであるかを知りたいと思って、二人の嬰児を一室に収容し、人間の言語を少しも聞かせないようにして、何等の教育も与えずに置き、成長の後、連れ出して見たが、二人とも少しも人間らしい言語を発することが出来ず、ただ獣のような不明瞭な音を発するのみであったという。
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふおよそ人の世に立つについて最も肝要なるものは、智慧を増して行かねばならぬ。すべて一身の発達、国家の公益を図るにも、智識というものがなければ進んで行くことは出来ぬけれども、しかしそれ以上に人は人格というものを養って行かなくてはならぬ。いわゆる人格の修養、これは極めて大切なことだろうと思う。ただし人格という定義はいかに論断せらるるか知らないが、稀には少しは非常識ともいうべき英雄豪傑に人格崇高な人があるから、果たして人格と常識が必ず一致するものであろうかどうか。人が完全に役に立ち、公にも私にも、必要にしていわゆる真才真智というのは、多くは常識の発達にあると言っても誤りないと思うのである。
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