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論語と算盤 / 人格と修養・楽翁公の幼時

楽翁公の伝は既に広く世間に知れ渡つて居ることであるから、今更めて述ぶるまでもないのであるが、玆に述べんとするは楽翁公の御自筆で、松平家の秘書となつて居る『撥雲秘録』といふものに依りて、聊か公の御幼時に於ける一端を窺ふと同時に、その御人格御精神等の非凡なる所以を紹介しやうと思ふのである、即ち『六つの年に大病に罹りたり、生くべき程心許なかりけれど、高島朔庵法眼等多くの医師打集ひて医しぬ、九月の頃平癒す、七つの頃にやありけん、孝経を読み習ひ仮名なんど習ひたり、八つ九つの頃、人々皆記憶もよく才もありとて褒めの〻しりければ、我心ながらさもあることよと思ひしぞはかなかれ。』これは御利巧だ〳〵と皆が御世辞を言ふから、自分自身は悧巧な積りで居たのが恥かしいといふ、懐旧の情を叙べられたので、甚だ床しき述懐である。

書き下し

楽翁公の伝はすでに広く世間に知れ渡っていることであるから、今改めて述ぶるまでもないのであるが、ここに述べんとするは楽翁公の御自筆で、松平家の秘書となっている『撥雲秘録』というものによりて、いささか公の御幼時における一端を窺うと同時に、その御人格御精神等の非凡なる所以を紹介しようと思うのである。すなわち『六つの年に大病に罹りたり、生くべきほど心許なかりけれど、高島朔庵法眼等多くの医師打ち集いて医しぬ、九月の頃平癒す、七つの頃にやありけん、孝経を読み習い仮名なんど習いたり、八つ九つの頃、人々皆記憶もよく才もありとて褒めののしりければ、我が心ながらさもあることよと思いしぞはかなかれ。』これは御利口だ御利口だと皆がお世辞を言うから、自分自身は利口なつもりでいたのが恥ずかしいという、懐旧の情を述べられたので、甚だゆかしき述懐である。

現代語訳

楽翁公(松平定信)の伝記はすでに広く世間に知れ渡っていることだから、今あらためて述べるまでもない。ここで述べようとするのは、楽翁公ご自筆で、松平家の秘蔵の書となっている『撥雲秘録』というものによって、公の幼い頃の一端をうかがうと同時に、その人格や精神などが非凡であったゆえんを紹介しようということである。すなわち、「六歳の年に大病にかかった。生きられるかどうか心もとなかったが、高島朔庵法眼をはじめ多くの医者が集まって治療してくれ、九月ごろ全快した。七歳の頃だっただろうか、孝経を読み習い、仮名なども習った。八、九歳の頃、人々が皆、記憶もよく才能もあると褒めそやしたので、自分でもそうなのだろうと思っていたのは愚かなことであった」。これは、お利口だお利口だと皆がお世辞を言うので、自分でも利口なつもりでいたのが恥ずかしい、という昔を懐かしむ気持ちを述べられたもので、まことに奥ゆかしい述懐である。

解説

「楽翁公の幼時」の章の書き出しである。楽翁公とは、老中として寛政の改革を行った白河藩主松平定信のことで、渋沢は晩年、定信の伝記編纂に力を注ぐほど深く敬慕していた。渋沢が院長を務めた養育院の基金は、定信が江戸の町費を節約して積み立てさせた七分積金に由来しており、その縁も大きい。ここで渋沢が紹介するのは、定信自筆の『撥雲秘録』の冒頭である。六歳の大病、七歳で孝経を習ったこと、そして八、九歳の頃に皆から才があると褒めそやされ、自分でもそう思い込んでいたのは「はかなかれ」、つまり愚かだったという述懐だ。幼い頃の思い上がりを大人になって率直に書き残す人柄を、渋沢は「床しき述懐」と評する。人格の形成を、才能ではなく自己省察から見ていこうとする章の姿勢がここで示される。

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