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論語と算盤 / 理想と迷信・これは果して絶望か

自分の説に対して平和協会のボール氏とか、井上博士、塩沢博士、中島力蔵博士、菊地大麓男などは、全然帰一とまでは行かないにしても、必ず或る程度までは帰一し得らるべきものである、世の中の物事が、時としては横道に外れるやうなこともあるが、其れはその事物が悪いので、その為に真理は少しも晦まされるものでは無い、昔は斯うであつたとか、斯ういふ理論もあるとか曰はれて、仁義道徳を生産殖利とは必ず一致すべきもの、又一致せなければ真正の富を造り成し、之を永久に捕捉することの出来ないものであると云ふことは、大抵の議論が帰著しようと思ふと言つて居られる、若し果して斯ういふ論旨が十分に徹底して、世の中に鼓吹せられ、生産殖利は必ず仁義道徳に依らねばならぬ、と言ふ観念が打成されたならば、仁義道徳に欠ける行為は自ら止むに至るであらう、例へば、御用物品の買上に従ふ職司の人も、賄賂は仁義道徳に背くと心付けば、迚も賄賂を収め得るものでない、御用商人の側から云うても、仁義道徳に背戻すると思へば、賄賂を行うことは出来まい。

書き下し

自分の説に対して平和協会のボール氏とか、井上博士、塩沢博士、中島力造博士、菊池大麓男などは、全然帰一とまでは行かないにしても、必ずある程度までは帰一し得らるべきものである。世の中の物事が、時としては横道に外れるようなこともあるが、それはその事物が悪いので、そのために真理は少しもくらまされるものではない。昔はこうであったとか、こういう理論もあるとか言われて、仁義道徳と生産殖利とは必ず一致すべきもの、また一致せなければ真正の富を造り成し、これを永久に捕捉することの出来ないものであるということは、たいていの議論が帰着しようと思うと言っておられる。もし果たしてこういう論旨が十分に徹底して、世の中に鼓吹せられ、生産殖利は必ず仁義道徳によらねばならぬ、という観念が打成されたならば、仁義道徳に欠ける行為はおのずから止むに至るであろう。例えば、御用物品の買い上げに従う職司の人も、賄賂は仁義道徳に背くと心付けば、とても賄賂を収め得るものでない。御用商人の側から言うても、仁義道徳に背戻すると思えば、賄賂を行うことは出来まい。

現代語訳

私の説に対して、平和協会のボール氏や、井上博士、塩沢博士、中島力造博士、菊池大麓男爵などは、次のように言っておられる。まったく一つに帰するとまではいかないにしても、必ずある程度までは帰一しうるものである。世の中の物事が時として横道に外れることもあるが、それはその事柄が悪いのであって、そのために真理が少しでも曇らされるものではない。昔はこうだったとか、こういう理論もあるとか言われても、仁義道徳と生産殖利とは必ず一致すべきものであり、また一致しなければ本当の富をつくり出し、それを永久に保つことはできないものだということに、たいていの議論は帰着するだろうと思う、と。もし本当にこうした論旨が十分に行き渡って世の中に広められ、生産殖利は必ず仁義道徳によらなければならないという観念が打ち立てられたなら、仁義道徳に欠ける行為はおのずから止むに至るだろう。たとえば官の物品の買い上げを担当する役人も、賄賂は仁義道徳に背くと気づけば、とても賄賂を受け取れるものではない。御用商人の側から言っても、仁義道徳に背くと思えば、賄賂を贈ることはできないだろう。

解説

渋沢は、自分の説に対する識者たちの見解を紹介する。井上博士は哲学者の井上哲次郎、塩沢博士は経済学者の塩沢昌貞、中島力造は倫理学者、菊池大麓は数学者で東京帝国大学総長や文部大臣を務めた人と思われ、いずれも当時の学界の重鎮である。彼らは、完全な帰一は無理でも、ある程度までは一致しうる、物事が横道に外れることがあっても真理が曇るわけではない、と言う。そして、道徳と経済が一致しなければ本当の富をつくり、それを永く保つことはできない、という点にたいていの議論は帰着するだろう、と。これが「絶望か」という問いへの答えである。不正が絶えないのは事物が悪いのであって、道理が誤っているのではない。渋沢はさらに、この観念が社会に行き渡れば、買い上げる役人も御用商人も賄賂に手を出せなくなると言い、章の問題意識をシーメンス事件の反省に結びつける。「真正の富」を永く保つには道徳が要る、という指摘は、持続的な企業価値を問う今日の議論にもそのまま通じる。

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