論語と算盤 / 理想と迷信・これは果して絶望か
言ひ現はし方の差異で、一方は右から説き、一方は左から説き、而して帰する所は一である、斯様に程合のもので、深く研究を進めるならば、各々宗派を分ち、門戸を異にして、甚しきは相凌ぐといふやうなことは、実は馬鹿らしい事であらうと考へる、凡てに於て帰一が出来るか否かは判らぬけれども、或る程度の帰一を期し得るものなれば、左様あらしめたいといふ考へで、組織せられたのが即ち帰一協会である。
書き下し
言い現し方の差異で、一方は右から説き、一方は左から説き、そして帰する所は一である。かようにほどあいのもので、深く研究を進めるならば、各々宗派を分かち、門戸を異にして、甚だしきは相凌ぐというようなことは、実は馬鹿らしい事であろうと考える。すべてにおいて帰一が出来るか否かは判らぬけれども、ある程度の帰一を期し得るものなれば、そうあらしめたいという考えで、組織せられたのがすなわち帰一協会である。
現代語訳
それは言い表し方の違いであって、一方は右から説き、一方は左から説いているが、行き着くところは一つである。このように程度の差にすぎないものなのだから、深く研究を進めていけば、それぞれ宗派を分け、門戸を別にして、はなはだしい場合には互いにしのぎを削るというようなことは、実は馬鹿らしいことだろうと考える。すべてにおいて一つに帰することができるかどうかはわからないが、ある程度の帰一が期待できるものなら、そうさせたいという考えで組織されたのが、すなわち帰一協会である。
解説
右から説くか左から説くかの違いにすぎないのなら、宗派を分け門戸を立てて互いにしのぎを削るのは馬鹿らしい、と渋沢は言う。ただし彼は、すべてが一つになるとまでは言わない。すべてにおいて帰一できるかはわからないが、ある程度の帰一が期待できるならそうしたい、という控えめな目標を掲げている。この慎重さが渋沢らしい。理想を語りながら、到達できる範囲を見誤らない。明治の日本では、神道・仏教・キリスト教のあいだに緊張があり、内村鑑三の不敬事件のように、信仰の違いが社会問題になることもあった。そうした時代に、違いを消すのではなく共通点を確かめようとする場を実業家がつくったことには意味がある。組織の中でも、部門や派閥がそれぞれ正しさを主張して対立することがある。言い方が違うだけで目指すところは同じではないか、と一度立ち止まって確かめることが、無用な争いを減らす第一歩になる。
関連する章句
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『論語と算盤』理想と迷信・これは果して絶望か私どもの組織している帰一協会というのがある。帰一というのはほかでもない、世界の各種の宗教的観念、信仰等は、ついに一に帰する期のないものであろうか、神と言い、仏と言い、耶蘇と言い、人間の踏むべき道理を説くものである。東洋哲学でも西洋哲学でも、自然些細な事物の差はあるけれども、その帰趣は一途のように思われる。「言忠信、行篤敬なれば、蛮貊といえども行われん」と言い、反対に「言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里といえども行われんや」と言っているのは、これは千古の格言である。もし人に忠信を欠き行いが篤敬でなかったならば、親戚故旧たりともその人を嫌がるに違いない。西洋の道徳もやはり同じような意味のことを説いている。ただ西洋の流儀は積極に説き、東洋の流儀は幾分か消極に説いてある。例えば、孔子教では「己の欲せざる所、人に施すなかれ」と説いてあるのに、耶蘇の方では「己の欲する所、これを人に施せ」と、反対に説いてあるようなもので、幾分かの相違はあるけれども、悪いことをするな、善いことをせよと言う。
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『論語と算盤』理想と迷信・これは果して絶望か組織以来もはや数年を経過している。これが会員は日本人ばかりでなく、欧米人も多少はいて、そしてある問題についてお互いに研究し合っている。私はすなわち仁義道徳と生産殖利ということは、一致すべきものであり、一致させたいものであることについて、自分は四十年来その事を唱道し実践している。しかしながら道理はそうであるけれども、これに反する事実がしばしば世間に現れるのは、真に情けない次第である。
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『論語と算盤』理想と迷信・これは果して絶望かこの関係を押し進めて政治にせよ、法律にせよ、軍事にせよ、あらゆる事柄をこの仁義道徳に一致させなければいけない。一方は仁義道徳に従って正しき商売の道を踏んでも、一方が賄賂を要請するというような片足ではいけない。世の中のことはほとんど車を回すようなもので、お互いに仁義道徳を守って行かなければ、必ずどこかに扞格を生ずるのであるから、一切の事柄をして仁義道徳に合致せしむるよう、相互に努めなければならぬ。この主義を十分に拡大して広く社会に行うならば、賄賂などというような、忌まわしいことは自ずと止むに至るであろう。
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『論語と算盤』成敗と運命・人事を尽して天命を待て天の果たしていかなるものであろうかということについては、私の関係している帰一協会などの会合でもしばしば議論の起こるところであるが、ある一部の宗教家中には、天を一種の霊的動物であるかのごとくに解釈し、これを人格ある霊体とし、あたかも人間が手足を動かして、あるいは人に幸福を授けたり不幸を下したりするのみならず、祈禱したりお縋り申したりすれば、天はこれに左右せられて、命を二三にせらるるかのごとくに考えておらるる方もある。しかし天はこれらの宗教家方の考えらるるごとく、人格や人体を具えたり、祈願の有無によって、幸不幸の別を人の運命の上につけるごときものではない。天の命は人のこれを知りもせず覚りもせぬ間に、自然に行われてゆくものである。もとより天は手品師のごとき不可思議の奇蹟などを行うものではない。
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『論語と算盤』理想と迷信・道理ある希望を持ておよそ人の世に処するには、相当の趣味と理想とをもって道理から割り出して進むのが必要であると思う。ただその間にいわゆる商業の徳義はどうしても立て通すようにして、最も重要なるは信である。この信の一字を守ることが出来なかったならば、我々実業界の基礎は鞏固ということは出来ないのである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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