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論語と算盤 / 理想と迷信・これは果して絶望か

私共の組織して居る帰一協会といふのがある、帰一といふのは外でもない、世界の各種の宗教的観念、信仰等は、遂に一に帰する期のないものであらうか、神といひ、仏といひ、耶蘇といひ、人間の履むべき道理を説くものである、東洋哲学でも西洋哲学でも、自然些細な事物の差はあるけれども、その帰趣は一途のやうに思はれる、『言忠信、行篤敬なれば、蛮貊と雖も行はれん』といひ、反対に『言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里と雖も行はれんや』と云つて居るのは、これは千古の格言である、若し人に忠信を欠き行が篤敬でなかつたならば、親戚故旧たりとも其人を嫌がるに違ひない、西洋の道徳も矢張り同じやうな意味のことを説いて居る、但だ西洋の流義は積極に説き、東洋の流義は幾分か消極に説いてある、例へば、孔子教では『己の欲せざる所、人に施す勿れ』と説いてあるのに、耶蘇の方では『己の欲する所、これを人に施せ』と、反対に説いてあるやうなもので、幾分かの相違はあるけれども、悪いことをするな、善いことをせよと云ふ、

書き下し

私どもの組織している帰一協会というのがある。帰一というのはほかでもない、世界の各種の宗教的観念、信仰等は、ついに一に帰する期のないものであろうか、神と言い、仏と言い、耶蘇と言い、人間の踏むべき道理を説くものである。東洋哲学でも西洋哲学でも、自然些細な事物の差はあるけれども、その帰趣は一途のように思われる。「言忠信、行篤敬なれば、蛮貊といえども行われん」と言い、反対に「言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里といえども行われんや」と言っているのは、これは千古の格言である。もし人に忠信を欠き行いが篤敬でなかったならば、親戚故旧たりともその人を嫌がるに違いない。西洋の道徳もやはり同じような意味のことを説いている。ただ西洋の流儀は積極に説き、東洋の流儀は幾分か消極に説いてある。例えば、孔子教では「己の欲せざる所、人に施すなかれ」と説いてあるのに、耶蘇の方では「己の欲する所、これを人に施せ」と、反対に説いてあるようなもので、幾分かの相違はあるけれども、悪いことをするな、善いことをせよと言う。

現代語訳

私たちが組織している帰一協会というものがある。帰一というのはほかでもない。世界のさまざまな宗教的観念や信仰などは、ついに一つに帰する時はないものだろうか。神と言い、仏と言い、キリストと言うが、どれも人間の踏むべき道理を説くものである。東洋哲学でも西洋哲学でも、自然と細かな事柄の違いはあるけれども、その行き着くところは一つの道のように思われる。「言葉が誠実で、行いが篤く慎み深ければ、未開の異国でも通用する」と言い、反対に「言葉が誠実でなく、行いが篤く慎み深くなければ、郷里でさえ通用するだろうか」と言っているのは、千古の格言である。もし人が誠実さを欠き、行いが篤く慎み深くなければ、親戚や旧友であってもその人を嫌がるに違いない。西洋の道徳も、やはり同じような意味のことを説いている。ただ西洋の流儀は積極的に説き、東洋の流儀はいくぶん消極的に説いている。たとえば孔子の教えでは「自分の望まないことを人にするな」と説いているのに、キリストの方では「自分の望むことを人にせよ」と反対に説いているようなもので、いくらかの違いはあるけれども、どちらも悪いことをするな、善いことをせよと言っているのである。

解説

「これは果して絶望か」の章は、渋沢が中心となって明治四十五年に設立した帰一協会の紹介から始まる。成瀬仁蔵や姉崎正治らとともに、世界の宗教や哲学がある程度まで一つに帰し得るかを研究しようとした会である。渋沢はまず『論語』衛霊公篇の「言忠信、行篤敬なれば、蛮貊の邦と雖も行はれん」を千古の格言として引く。言葉に誠があり、行いが篤く慎み深ければ、文化の違う異国でも通用する。逆なら郷里でさえ通用しない。そのうえで孔子の「己の欲せざる所、人に施す勿れ」とイエスの「己の欲する所、これを人に施せ」を並べ、東洋は消極的に、西洋は積極的に説くという違いはあっても、悪いことをするな、善いことをせよという点で一致すると見る。宗教を持たなかった渋沢が、宗派の違いより共通の道理に目を向けたのは自然なことだった。国籍や文化の違う相手と仕事をするときにも、誠実な言葉と篤い行いという土台は共通して通じる。

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