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論語と算盤 / 理想と迷信・人生観の両面

人は此の世に生れた以上、必ず何等かの目的がなくては叶はぬことだが、其の目的とは果して何事であるか、如何にして遂げ得べきか、これは人の面貌の異れる如く、各自意見を異にして居るであらうが、恐らくは次の如く考ふる人もあるであらう、それは自己の長じたる手腕にせよ、技倆にせよ、それを十分に発揮して力の限りを尽し、以て君父に忠孝を効し、或は社会を救済しようと心懸ける、併し其れも漠然と心で思ふだけでは何にもならぬ、矢張り何等か形式に現はして為なければならぬので、玆に己の修め得たる材能に依頼して、各自の学問なり、技術なりを尽すやうにする、例へば、学者ならば学者としての本分を尽し、宗教家ならば宗教家としての職責を完うし、政治家も其の責任を明かにし、軍人も其の任務を果すといふやうに、各自に其の能力の有らん限りを傾けて之に心を入れる、斯の如き場合に於ける其の人々の心情を察するに、寧ろ自己の為といふよりは君父の為め、社会の為といふ観念といふ方が勝つて居る、即ち君父や社会を主とし、自己のことをば賓と心得て居るので、余は之をしも客観的人生観とは名くるのである。

書き下し

人はこの世に生まれた以上、必ず何らかの目的がなくては叶わぬことだが、その目的とは果たして何事であるか、いかにして遂げ得べきか、これは人の面貌の異なれるごとく、各自意見を異にしているであろうが、おそらくは次のごとく考うる人もあるであろう。それは自己の長じたる手腕にせよ、技倆にせよ、それを十分に発揮して力の限りを尽し、もって君父に忠孝を効し、あるいは社会を救済しようと心懸ける。しかしそれも漠然と心で思うだけでは何にもならぬ。やはり何らか形式に現してなさなければならぬので、ここに己の修め得たる材能に依頼して、各自の学問なり、技術なりを尽すようにする。例えば、学者ならば学者としての本分を尽し、宗教家ならば宗教家としての職責をまっとうし、政治家もその責任を明らかにし、軍人もその任務を果たすというように、各自にその能力のあらん限りを傾けてこれに心を入れる。かくのごとき場合におけるその人々の心情を察するに、むしろ自己のためというよりは君父のため、社会のためという観念という方が勝っている。すなわち君父や社会を主とし、自己のことをば賓と心得ているので、余はこれをしも客観的人生観とは名付くるのである。

現代語訳

人はこの世に生まれた以上、必ず何らかの目的がなくてはならないが、その目的とはいったい何なのか、どうすれば遂げられるのか。これは人の顔がそれぞれ違うように、各自の意見も違っているだろうが、おそらく次のように考える人もいるだろう。自分の優れた手腕であれ技量であれ、それを十分に発揮して力の限りを尽くし、それによって主君や父に忠孝を尽くし、あるいは社会を救おうと心がける。しかしそれも、漠然と心で思うだけでは何にもならない。やはり何らかの形に表して行わなければならないので、そこで自分の身につけた才能を頼みに、それぞれの学問なり技術なりを尽くすようにする。たとえば学者なら学者としての本分を尽くし、宗教家なら宗教家としての職責を全うし、政治家もその責任を明らかにし、軍人もその任務を果たすというように、それぞれが能力のありったけを傾けて、そこに心を込める。このような場合の人々の心情を察すると、自分のためというよりは、主君や父のため、社会のためという気持ちの方が勝っている。つまり主君や父や社会を主とし、自分のことを客と心得ているのであって、私はこれを客観的人生観と名づけるのである。

解説

「人生観の両面」の章は、人は何のために生きるのかという問いから始まる。渋沢は二つの人生観を立て、この段ではまずその一方を描く。自分の手腕や技量を十分に発揮し、学者は学者の本分を、宗教家は宗教家の職責を、政治家や軍人もそれぞれの任務を尽くす。そのときの心は、自分のためよりも君父や社会のためという思いが勝っている。社会を主、自分を賓(客)と置くこの生き方を、渋沢は「客観的人生観」と名づける。今日の哲学用語の客観・主観とは意味が違い、自分と社会のどちらを主人に据えるかという区別である。「君父に忠孝を効し」という言い方には、主君と父への奉仕を最上の徳とした時代の価値観が表れている。ただし渋沢の要点は、社会のためという思いは漠然と心で思うだけでは何にもならず、自分の学問や技術を尽くすという形で表さなければならない、という所にある。志は職業を通して実現される。仕事に全力を尽くすことが、そのまま社会への貢献になるという考え方である。

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