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論語と算盤 / 理想と迷信・人生観の両面

然るに前陳のやうなことは全く反対に、唯々簡単に自分一人のことばかり考へ、社会のことや他人のことなぞ考へない者もあるであらう、併し此人の考の如く社会を観察すれば、矢張り其所に理屈がないでもない、即ち自己は自己の為に生れたものである、他人の為や社会の為に自己を犠牲にすることは怪しからぬではないか、自己の為に生れた自己なら、何所までも自己の為に計るが可いとの主張から、社会に起る諸事件に対し、出来得る限り自己に利益になるやうにばかりして行く、例へば、借金は自分の為に自分がしたのだから、是は当然払ふべき義務があるから払ふ、租税も自分が生存しつ〻ある国家の費用だから、当然に上納する、村費も亦左様であるが、此上他人を救ふ為に、或は公共事業の為に義捐するといふやうな責任は負はない、それは他人のため社会の為にはなるであらうが、自分の為にならぬからだとなし、何でも自己の為に社会を経営させようとする。

書き下し

しかるに前陳のようなことはまったく反対に、ただただ簡単に自分一人のことばかり考え、社会のことや他人のことなぞ考えない者もあるであろう。しかしこの人の考えのごとく社会を観察すれば、やはりそこに理屈がないでもない。すなわち自己は自己のために生まれたものである。他人のためや社会のために自己を犠牲にすることはけしからぬではないか。自己のために生まれた自己なら、どこまでも自己のために計るがよいとの主張から、社会に起こる諸事件に対し、出来得る限り自己に利益になるようにばかりして行く。例えば、借金は自分のために自分がしたのだから、これは当然払うべき義務があるから払う。租税も自分が生存しつつある国家の費用だから、当然に上納する。村費もまたそうであるが、この上他人を救うために、あるいは公共事業のために義捐するというような責任は負わない。それは他人のため社会のためにはなるであろうが、自分のためにならぬからだとなし、何でも自己のために社会を経営させようとする。

現代語訳

ところが、先に述べたこととはまったく反対に、ただ単純に自分一人のことばかり考え、社会のことや他人のことなど考えない者もいるだろう。しかしこの人の考えのように社会を観察すれば、やはりそこに理屈がないわけでもない。つまり、自分は自分のために生まれたものである。他人のためや社会のために自分を犠牲にするのはけしからぬではないか。自分のために生まれた自分なら、どこまでも自分のために計ればよい——こうした主張から、社会に起こるさまざまな事柄に対して、できる限り自分の利益になるようにばかりしていく。たとえば借金は、自分のために自分がしたのだから、当然払う義務があるので払う。租税も、自分が生きている国家の費用だから当然納める。村の費用もまた同じである。しかしそれ以上に、他人を救うため、あるいは公共事業のために寄付するというような責任は負わない。それは他人のため社会のためにはなるだろうが、自分のためにはならないからだとして、何でも自分のために社会を動かそうとする。

解説

客観的人生観の反対側を、渋沢は公平に描いてみせる。自分は自分のために生まれたのだから、社会のために自分を犠牲にするのはおかしい。借金は自分がしたものだから払う、税も自分が生きる国の費用だから納める、村の費用も出す。しかしそれ以上に人を救ったり公共事業に寄付したりする責任はない。義務は果たすが、義務を超えることはしない、という立場である。渋沢はこれを頭ごなしに否定せず、「理屈がないでもない」と認める。この人は違法なことも不誠実なこともしていない。今日の言葉で言えば、徹底した個人主義、あるいは法令と契約の範囲だけで生きる合理主義である。渋沢自身は生涯におよそ六百の社会公共事業に関わり、寄付を集めて回った人だが、寄付をしない人を悪人としては描いていない。論敵の理屈を正確に述べてから反論する、というのが彼の議論の作法である。義務の最低限を守ることと、社会の一員として生きることとの間に何があるのかを考えさせる段である。

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