論語と算盤 / 仁義と富貴・能く集め能く散ぜよ
総じて金は貴ばなければならぬ、これは単に青年ばかりに望むのではない、老人も壮者も男も女も、凡て人の貴ぶべきものである、前にも言つた如く、貨幣は物の代表であるから、物と同じく貴ばなければならぬ、昔禹王といふ人は、些細な物をも粗末にしなかつた、また宋の朱子は、『一食一飯まさに之を作るの難きを思ふべし、半紙半縷来処の易からざるを知れ』と言つてある、一寸の糸屑半紙の紙切、又は一粒の米とても、決して粗末にしては為らないのである、それに就て爰に一つの佳話がある、英蘭銀行に有名なるギルバルトといふ人が、青年時代に目見えの為め銀行に出頭して、その帰る時に、室内に落ちてありし一本の「ピン」を見付けて、ギルバルトは直ちに之を拾つて襟にさした、
書き下し
総じて金は貴ばなければならぬ。これは単に青年ばかりに望むのではない。老人も壮者も男も女も、すべて人の貴ぶべきものである。前にも言ったごとく、貨幣は物の代表であるから、物と同じく貴ばなければならぬ。昔禹王という人は、些細な物をも粗末にしなかった。また宋の朱子は、「一食一飯まさにこれを作るの難きを思うべし、半紙半縷来処の易からざるを知れ」と言ってある。一寸の糸屑半紙の紙切れ、または一粒の米とても、決して粗末にしてはならないのである。それについてここに一つの佳話がある。英蘭銀行に有名なるギルバルトという人が、青年時代に目見えのため銀行に出頭して、その帰る時に、室内に落ちてありし一本の「ピン」を見付けて、ギルバルトはただちにこれを拾って襟にさした。
現代語訳
総じて金は貴ばなければならない。これは青年だけに望むのではない。老人も壮年も男も女も、すべての人が貴ぶべきものである。前にも言ったように、貨幣は物の代表であるから、物と同じように貴ばなければならない。昔、禹王という人は、ささいな物も粗末にしなかった。また宋の朱子は「一度の食事、一杯の飯も、それを作る苦労を思うべきである。半枚の紙、半筋の糸も、それがたやすく手に入ったものではないことを知れ」と言っている。一寸の糸くず、半紙の切れ端、あるいは一粒の米であっても、決して粗末にしてはならないのである。それについて、ここに一つの良い話がある。イングランド銀行で名高いギルバルトという人が、青年時代に面接のため銀行に出向き、その帰りがけに、室内に一本のピンが落ちているのを見つけた。ギルバルトはすぐにそれを拾って襟に刺した。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』仁義と富貴・能く集め能く散ぜよこれを見た銀行の試験役はギルバルトを呼び止め、今足下は室内で何かお拾いになったようですが、あれは何ですかと聞くと、ギルバルトは臆する色もなく、一本の「ピン」が落ちていたが、取り上げれば要用のもので、このままにしておけば危険であると思って拾い取りましたと答えた。ここにおいて試験役は大いに感心して、さらに色々質問してみると、まことに思慮深い有望な青年であったので、ついにこれを任用し、後年に至りて大銀行家となったということである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・能く集め能く散ぜよしかるに世には貴ぶということを曲解して、ただ無闇にこれを吝しむ人がある。真に注意せねばならぬことである。金に対して戒むべきは濫費であると同時に、注意すべきは吝嗇である。よく集むるを知りてよく散ずることを知らねば、その極み守銭奴となるから、今日の青年は濫費者とならざらんことを勉むると同時に、守銭奴とならぬように注意せねばならぬのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・能く集め能く散ぜよ要するに、金は社会の力を表彰する要具であるから、これを貴ぶのは正当であるが、必要の場合によく費消するはもちろん善いことであるが、よく集めよく散じて社会を活発にし、したがって経済界の進歩を促すのは有為の人の心懸くべきことであって、真に理財に長ずる人は、よく集むると同時によく散ずるようでなくてはならぬ。よく散ずるという意味は、正当に支出するのであって、すなわちこれを善用することである。良医が大手術を用いて患者の一命を救った「メス」も、狂人に持たしめると人を傷つける道具となる。また老母の孝養に必要なる飴も、賊徒に与うれば枢の開閉に音なきの盗具となる。ゆえに、我々は金を貴んで善用することを忘れてはならない。実に金は貴ぶべくまた賤しむべし。これをして貴ぶべきものたらしむるのは、ひとえに所有者の人格によるのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・能く集め能く散ぜよ金とは現に世界に通用する貨幣の通称であって、そして諸物品の代表者なのである。貨幣が特に便利であるというのは、何物にも代わり得らるるからである。太古は物々交換であったが、今は貨幣さえあればどんなものでも心に任せて購うことが出来る。この代表的価値のある所が貴いのである。だから貨幣の第一の要件として、貨幣そのものの実価と物品の値とが等しくなければならない。もし称呼のみ同一にしてその貨幣の実価が減少すると、反対に物価は騰貴する。また貨幣は分割に便利である。ここに一円の湯呑がある。これを二人に分けようと思っても分けることは出来ない。壊して半分にして五十銭ずつに分けることは出来ない。貨幣だとそれが出来る。一円の十分の一が欲しいと思うと、十銭銀貨がある。また貨幣は物の価格を定める。もし貨幣というものがなかったなら、この茶碗と煙草盆の等級を明確に定めることは出来ない。しかるに茶碗は一個十銭、煙草盆は一円というならば、すなわち茶碗は煙草盆の十分の一に当たり、貨幣あって両者の価格は定まるのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・効力の有無は其人に在りとの御歌は、実に感佩敬服に堪えぬのである。しかるに世間の人々は、とかくこの金を悪用したがるものである。されば古人もこれを戒めて「小人罪なし、宝を抱くこれ罪」とか、「君子財多ければその徳を損し、小人財多ければその過を増す」などと言ってある。論語を読んで見ても、「富みかつ貴きは、我において浮雲のごとし」と言い、または「富にして求むべくんば執鞭の士といえども、我またこれを為さん」と言い、大学には「徳は本なり、財は末なり」と言ってある。今かかる訓言を一々ここに引用したならば、ほとんど枚挙に遑なしであろうが、これは決して金を軽視してもよいという意味ではない。いやしくも世の中に立って完全の人たらんとするには、まず金に対する覚悟がなくてはならぬ。そしてかかる訓言に徴しても、社会における金の効力はいかに思察すべきものであるか、すこぶる考慮を要するのである。けだしあまりこれを重んじ過ぎるのも誤りなら、またこれを軽んじ過ぎるのもよろしくない。すなわち「国、道ありて貧かつ賤しきは恥なり、国、道なくして富かつ貴きは恥なり」と言って、孔子も決して貧乏を奨励はなさらなかった。ただ「その道をもってせざれば、これを得るとも処らざるなり」である。
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『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずもちろん金銭は貴いものではあるが、またすこぶる卑しい物である。貴い点より言えば、金銭は労力の代表となり、約束によってたいていの物の代価は、金銭ならでは清算の出来ぬものである。けだしここに金銭というは、ただ金銀貨幣紙幣の類の通貨のみを指すのではなく、総じて代償することの出来る貨財は金銭をもって評することが出来るので、金銭は財産の代称であるとも言い得ると思うのである。かつて昭憲皇太后宮の御歌を拝誦した中に、もつ人の心によりてたからとも仇ともなるは黄金なりけりとあったように記憶しているが、真に適切なる御評で、吾人の感佩服膺すべき名歌であると思う。しかるに昔の支那人の書いたものによると、一体に金銭を卑しむ風が盛んであるように思われる。左伝に「小人玉を抱いて罪あり」とある類から、孟子に陽虎の言として「仁を為せば富まず、富めば仁ならず」とあるがごとき、その一例である。陽虎のごときはもとより敬服すべき人物ではないが、当時にありては知言として一般から認められていたのである。
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