論語と算盤 / 仁義と富貴・真正の利殖法
殊に極く昔の事物の進歩せぬ時代は、或は「マグレ」幸と云ふことがあつたけれども、世の進むに従つて総ての事物が、どうしても規則的にやつて行かなければならぬ時代に於て、己れ自身さへ都合が宜いと云ふならば、例へば鉄道の改札場を通らうと云ふに、狭い場所を己れさへ先へ通らうと皆思つたならば、誰も通ることが出来ぬ有様になつて、共に困難に陥る、近い例を云ふと、己れをのみと云ふ考へが、己れ自身の利をも進めることが出来ぬといふは、此の一事に徴しても分るだらうと思ふのである、是に於て私が常に希望する所は、物を進めたい増したいと云ふ慾望といふものは、常に人間の心に持たねばならぬ、而して其の慾望は道理に依つて活動するやうにしたい、此の道理といふのは仁義徳相並んで行く道理である、其の道理と慾望とは相密著して行かなければ、此の道理も前にいふ支那の衰微に陥つたやうな風に走らないとは云へない、又後にいふ慾望は如何に進んで行つても、道理に違背する以上は、何時までも奪はずんば饜かずといふ不幸を見るに至るであらうと思ふのである。
書き下し
ことにごく昔の事物の進歩せぬ時代は、あるいは「マグレ」幸ということがあったけれども、世の進むに従ってすべての事物が、どうしても規則的にやって行かなければならぬ時代において、己れ自身さえ都合がよいというならば、例えば鉄道の改札場を通ろうというに、狭い場所を己れさえ先へ通ろうと皆思ったならば、誰も通ることが出来ぬ有様になって、ともに困難に陥る。近い例を言うと、己れをのみという考えが、己れ自身の利をも進めることが出来ぬというは、この一事に徴しても分かるだろうと思うのである。ここにおいて私が常に希望する所は、物を進めたい増したいという慾望というものは、常に人間の心に持たねばならぬ。そしてその慾望は道理によって活動するようにしたい。この道理というのは仁義徳相並んで行く道理である。その道理と慾望とは相密着して行かなければ、この道理も前にいう支那の衰微に陥ったような風に走らないとは言えない。また後にいう慾望はいかに進んで行っても、道理に違背する以上は、いつまでも奪わずんば饜かずという不幸を見るに至るであろうと思うのである。
現代語訳
とりわけ、ごく昔の物事が進歩していなかった時代には、あるいは「まぐれ」の幸運ということもあったが、世の中が進むにつれて、すべての物事がどうしても規則正しくやっていかなければならない時代に、自分さえ都合がよければよいというのであれば、たとえば鉄道の改札口を通ろうとするとき、狭い場所を皆が自分こそ先に通ろうと思ったら、誰も通れない有様になって、ともに困ることになる。身近な例で言えば、自分だけという考えが、自分自身の利益さえ進められないということは、この一事に照らしても分かるだろうと思う。そこで私がいつも望んでいるのは、物を進めたい、増やしたいという欲望は、常に人間の心に持っていなければならない、ということである。そしてその欲望は、道理によって働くようにしたい。この道理とは、仁義と道徳が相並んでいく道理である。その道理と欲望とがぴったり寄り添っていかなければ、道理のほうも、前に言った中国の衰微に陥ったような方向に走らないとは言えない。また欲望のほうも、どれほど進んでいっても、道理に背く以上は、いつまでも奪い尽くさなければ満足しないという不幸を見るに至るであろうと思うのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』仁義と富貴・真正の利殖法さりながらその利殖を図るものも、もしことごとく己れさえ利すれば、他はどうでもよかろうということをもって利殖を図って行ったならば、その事物はいかに相成るか。むずかしいことを言うようであるけれども、もし果たして前に述べたごとき有様であったならば、かの孟子の言う「何ぞ必ずしも利を曰わん、また仁義あるのみ」云々、「上下こもごも利を征りて国危うし」云々、「いやしくも義を後にして利を先にすることをせば、奪わずんば饜かず」となるのである。それゆえに真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでないと私は考える。
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『論語と算盤』仁義と富貴・真正の利殖法されば利殖を主義とするか、己れさえ利すればよろしい、人は構わぬという方の主義に基づいてやって行くか、今いう隣国のある一部分、元の当時の有様はそれである。人は構わぬ己れさえよければよい、国家は構わぬ、自己さえよければよい、その極国家はいかなる権利を失い、いかなる名声を落とすとも、個人の発達を考えて国家を顧みる人は、ほとんど稀だという有様である。宋の時代には前述の道徳仁義について国を亡ぼしたし、今日はまた利己主義において身を危うすると言わねばならぬのである。これは独り我が隣国ばかりでない、他の国々も皆同一であって、つまり利を図るということと、仁義道徳たる所の道理を重んずるという事は、並び立って相異ならん程度において始めて国家は健全に発達し、個人はおのおのその宜しきを得て富んで行くというものになるのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・廓清の急務なる所以旧に復って、治める方の人のみが道義を重んじ、生産殖利に従事する人はなるたけ制限して、ごく小さい範囲に棲息せしむるようにして行ったならば、その弊害を減ずることが出来るか知れないが、それでは国の富の進歩は止まってしまう。そこであくまで富を進め、富を擁護しつつ、その間に罪悪の伴わぬ神聖な富を作ろうとするには、どうしても一の守るべき主義を持たなければならぬ。それはすなわち私が常に言っている所の仁義道徳である。仁義道徳と生産殖利とは決して矛盾しない。だからその根本の理を明らかにして、かくすればこの位置を失わぬということを、我れ人共に十分に考究して、安んじてその道を行うことが出来たならば、あえて相率いて腐敗堕落に陥るということなく、国家的にも個人的にも、正しく富を増進することが出来ると信ずる。その方法として日常の事につき、かかる商売にはかくかく、かかる事業にはかくかくとここに詳述は出来ないが、
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ孔孟教の根底を誤り伝えたる結果は、利用厚生に従事する実業家の精神をして、ほとんどすべてを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚だしきに至っては法網をくぐられるだけくぐっても金儲けをしたいの一方にさせてしまった。したがって今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的および法律的の制裁が絶無としたならば、彼らは強奪すらしかねぬという情けない状態に陥っている。もし永くこの状態を押して行くとすれば、将来貧富の懸隔はますます甚だしくなり、社会はいよいよあさましい結果に立ち至る事と予想しなければならぬ。これまことに孔孟の訓えを誤り伝えたる学者が数百年来跋扈していた余毒である。とにかく世の中が進むにつれて、実業界においても生存競争がますます激しくなるは自然の結果と言ってよい。
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『論語と算盤』仁義と富貴・真正の利殖法試みに例えば石油であるとか、もしくは製粉であるとか、あるいは人造肥料であるというような業務について考えて見ても、もし利益を進めるという観念がなくて、成り行き次第でどうでもよいというような風にやったならば、決して事業が発達するものではない。富の増進するものでないことは明らかである。仮にもしその仕事が自己の利害に関係せず、人ごとに儲かっても己れの仕合わせにならぬ、損しても不仕合わせにならぬということであったならば、その事業は完全に進まぬけれども、己れの仕事であれば、この物を進めたい、この仕事を発達せしむるということは争うべからざる事実である。されば、もしそういう観念から他の事を凌いで、あるいは世の中の大勢を知らず、あるいは事情を察せずに、我さえ善ければよいということであったならば、いかになるか。必ずともにその不幸を蒙って、己れ一人を利そうと思った、その己れもまた不幸を蒙るということになるのである。
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『論語と算盤』処世と信条・得意時代と失意時代しからば大事に処するにはいかにすればよいかというに、まず事に当たってよくこれを処理することが出来ようかということを考えて見なければならぬ。けれどもそれとて人々の思慮によるので、ある人は自己の損得は第二に置き、専らその事について最善の方法を考える。またある人は自己の得失を先にして考える。あるいは何物をも犠牲としてその事の成就を一念に思う者もあれば、これと反対に自家を主とし、社会のごときはむしろ眼中に置かぬ打算もあろう。けだし人は銘々その面貌の変わっているごとく、心も異なっているものであるから、一様に言う訳には行かぬが、もし余にどう考えるかと問わるれば、次のごとく答える。すなわち事柄に対しいかにせば道理に契うかをまず考え、そしてその道理に契ったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えて見た時、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にも契い、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨て、道理のある所に従うつもりである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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