論語と算盤 / 常識と習慣・人生は努力にあり
人の世に成功するの要素として、智の必要なること、即ち学問の必要なることは勿論であるが、それのみを以て直ちに成功し得るものと思ふは大なる誤解である、論語に『子路曰く、民人あり、社稷あり、何ぞ必ずしも書を読みて、然る後に学ぶと為ん』とある、これは孔子の門人の子路の言である、すると孔子は『是の故に夫の佞者を悪む』と答へられた、此意は『口ばかりで、事実行はれなくては駄目である』といふことである、予は此の子路の言を善しと思つて居る、左れば机上の読書のみを学問と思ふのは甚だ不可のことである。
書き下し
人の世に成功するの要素として、智の必要なること、すなわち学問の必要なることはもちろんであるが、それのみをもって直ちに成功し得るものと思うは大なる誤解である。論語に「子路曰く、民人あり、社稷あり、何ぞ必ずしも書を読みて、しかる後に学ぶと為ん」とある。これは孔子の門人の子路の言である。すると孔子は「この故にかの佞者を悪む」と答えられた。この意は「口ばかりで、事実行われなくては駄目である」ということである。予はこの子路の言を善しと思っている。されば机上の読書のみを学問と思うのは甚だ不可のことである。
現代語訳
人が世の中で成功する要素として、知恵が必要であること、すなわち学問が必要であることはもちろんだが、それだけですぐに成功できると思うのは大きな誤解である。論語に「子路が言った、治めるべき民がおり、祀るべき社稷がある。どうして必ずしも書物を読んでから学ぶとする必要があろうか」とある。これは孔子の門人の子路の言葉である。すると孔子は「だから私は口の達者な者を憎むのだ」と答えられた。この意味は「口先ばかりで実際に行われなくては駄目だ」ということである。私はこの子路の言葉を善いと思っている。だから、机の上の読書だけを学問と思うのは、はなはだよくないことである。
解説
関連する章句
-
『論語と算盤』常識と習慣・人生は努力にあり怠惰はどこまでも怠惰に終わるものであって、決して怠惰から好結果が生まれることは断じてない。すなわち坐っていれば立ち働くより楽なようであるが、久しきにわたると膝が痛んで来る。それで寝転ぶと楽であろうと思うが、これも久しきにわたると腰が痛み出す。怠惰の結果はやはり怠惰で、それがますます甚だしくなるくらいが落ちである。ゆえに人は良き習慣を造らねばならぬ。すなわち勤務努力の習慣を得るようにせねばならぬ。
-
『論語と算盤』常識と習慣・人生は努力にあり世人はよく知力を進めねばならぬとか、時勢を解せねばならぬとか言うが、なるほどこれは必要なことで、時を知り事を選む上には、智力を進めること、すなわち学問を修むる必要がある。とは言うものの、智力いかに十分であっても、これを働かさねば何の役にも立たない。そこでこれを働かせるということは、すなわち勉強してこれを行うことであって、この勉強が伴わぬと、百千の智も何ら活用をなさぬ。そしてその勉強も、ただ一時の勉強では十分でない。終身勉強して始めて満足するものである。およそ勉強心の強い国ほど国力が発展している。これに反して、怠惰国ほどその国は衰弱している。現に我が隣国支那などは、いわゆる不勉強の好適例である。ゆえに一人勉強して一郷その美風に薫じ、一郷勉強して一国その美風に化し、一国勉強して天下靡然としてこれに倣うというように、各自はただに一人のためのみでなく、一郷一国ないし天下のために、十分勉強の心懸けが大切である。
-
『論語と算盤』処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓しかし論語は決して六ケ敷い学理ではない。六ケ敷いものを読む学者でなければ解らぬというようなものでない。論語の教は広く世間に効能があるので、元来解り易いものであるのを、学者が六ケ敷くしてしまい、農工商などのあずかり知るべきもので無いというようにしてしまった。商人や農人は論語を手にすべきもので無いというようにしてしまった。これは大なる間違である。このごとき学者は、たとえばやかましき玄関番のような者で、孔夫子には邪魔物である。こんな玄関番を頼んでは孔夫子に面会することは出来ぬ。孔夫子は決して六ケ敷屋でなく、案外捌けた方で、商人でも農人でも誰にでも会って教えてくれる方で、孔夫子の教は実用的の卑近の教である。
-
『論語と算盤』立志と学問・社会と学問との関係元来人情の通弊として、とかくに功を急ぎ大局を忘れて、勢い事物に拘泥し、わずかな成功に満足するかと思えば、さほどでもない失敗に落胆する者が多い。学校卒業生が社会の実務を軽視し、実際上の問題を誤解するのも、多くはこのためである。ぜひともこの誤れる考えは改めねばならぬが、その参考として学問と社会との関係を考察すべき例を挙げると。
-
『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではない要するに、理論と実際、学問と事業とが互いに並行して発達しないと、国家が真に興隆せぬのである。いかほど一方が発達しても、他の一方がこれに伴わなければ、その国は世界の列強間に伍することは出来ぬと思われる。事実ばかりで満足とは言われず、また学理のみでは立つことが出来ないので、この両者がよく調和し密着する時が、すなわち国にすれば文明富強となり、人にすれば完全なる人格ある者となるのである。
-
『論語と算盤』立志と学問・大立志と小立志との調和以上述べる所は主として立志の工夫であるが、古人はいかに立志をしたものであるか、参考として孔子の立志について研究して見よう。自分が平素処世上の規矩としている論語を通じて孔子の立志を窺うに、「十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る云々」とある所より推測すれば、孔子は十五歳の時すでに志を立てられたものと思われる。しかしながらその「学に志す」と言われたのは、学問をもって一生を過ごすつもりであるという志を固く定めたものかどうか、これはやや疑問とする所で、ただこれから大いに学問しなければならぬというくらいに考えたものではなかろうか。さらに進んで「三十にして立つ」と言われたのは、この時すでに世に立って行けるだけの人物となり、修身斉家治国平天下の技倆ありと自信する境地に達せられたのであろう。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る