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駿台雑話 / 大敵外になし一

翁かねておもふ事にて候、今の學者、聖賢の書を讀て、なまじゐに義理の僉議をいたし候へども、大かたは僉議に日を暮し、何にてもひとつ取とめて身に得たる事は侍らず、是も巧にして久しきと申べし、然るに武臣たる人は、不學にして一己の見付たる所によりて覺悟を決して直に行ひ出し候ゆへ、端的に其驗を見せ申にて候、學術なく候へば理に當らぬ事もあるべく候へども、其得たる所おのづから聖賢の敎にもかなひ候、いはゆる拙而速なるに候はずや、右の監物が事にて思ひ知給ふべし、それに付てこゝに殊勝なる事こそ候へ、寬永のころにかあらん、永井信濃守尚政しきりに昇進して寵任せられけるが、其比井伊掃部頭直孝一代の元老にておはせしに、或時邂逅して、我等事弱年の身にて、特恩を蒙りて、重職をつとめ候事誠に至極と申べく候、そこもとには御老功の御事にて候へば、我等心得にも成べき事おぼし召よりも候はゞ、仰さかされ候へとあれば、掃部頭先感して、奇特なる御心得にてこそ候へ、いかにも一ッ存じよりたる事候まゝ、傳授し候べし、されども大切なることをあからさまには申がたし、いよ〱御聞あり度候はゞ、某が宅へ御越候へといはれしかば、日を定て禮服を着し、

新字:翁かねておもふ事にて候、今の学者、聖賢の書を読て、なまじゐに義理の僉議をいたし候へども、大かたは僉議に日を暮し、何にてもひとつ取とめて身に得たる事は侍らず、是も巧にして久しきと申べし、然るに武臣たる人は、不学にして一己の見付たる所によりて覚悟を決して直に行ひ出し候ゆへ、端的に其験を見せ申にて候、学術なく候へば理に当らぬ事もあるべく候へども、其得たる所おのづから聖賢の教にもかなひ候、いはゆる拙而速なるに候はずや、右の監物が事にて思ひ知給ふべし、それに付てこゝに殊勝なる事こそ候へ、寛永のころにかあらん、永井信濃守尚政しきりに昇進して寵任せられけるが、其比井伊掃部頭直孝一代の元老にておはせしに、或時邂逅して、我等事弱年の身にて、特恩を蒙りて、重職をつとめ候事誠に至極と申べく候、そこもとには御老功の御事にて候へば、我等心得にも成べき事おぼし召よりも候はゞ、仰さかされ候へとあれば、掃部頭先感して、奇特なる御心得にてこそ候へ、いかにも一ッ存じよりたる事候まゝ、伝授し候べし、されども大切なることをあからさまには申がたし、いよ〱御聞あり度候はゞ、某が宅へ御越候へといはれしかば、日を定て礼服を着し、

書き下し

翁かねておもふ事にて候、今の學者、聖賢の書を讀て、なまじゐに義理の僉議をいたし候へども、大かたは僉議に日を暮し、何にてもひとつ取とめて身に得たる事は侍らず、是も巧にして久しきと申べし、然るに武臣たる人は、不學にして一己の見付たる所によりて覺悟を決して直に行ひ出し候ゆへ、端的に其驗を見せ申にて候、學術なく候へば理に當らぬ事もあるべく候へども、其得たる所おのづから聖賢の敎にもかなひ候、いはゆる拙而速なるに候はずや、右の監物が事にて思ひ知給ふべし、それに付てこゝに殊勝なる事こそ候へ、寬永のころにかあらん、永井信濃守尚政しきりに昇進して寵任せられけるが、其比井伊掃部頭直孝一代の元老にておはせしに、或時邂逅して、我等事弱年の身にて、特恩を蒙りて、重職をつとめ候事誠に至極と申べく候、そこもとには御老功の御事にて候へば、我等心得にも成べき事おぼし召よりも候はゞ、仰さかされ候へとあれば、掃部頭先感して、奇特なる御心得にてこそ候へ、いかにも一ッ存じよりたる事候まゝ、傳授し候べし、されども大切なることをあからさまには申がたし、いよ〱御聞あり度候はゞ、某が宅へ御越候へといはれしかば、日を定て禮服を着し、

現代語訳

翁がかねて思っていることがあります。今の学者は聖賢の書を読んで、なまじっか義理の詮議をしますが、おおかたは詮議に日を暮らし、何であれひとつ取り留めて身に得たことはありません。これも巧にして久しいというべきです。ところが武臣である人は、学がなく、自分の見つけたところで覚悟を決め、直ちに行いに出すので、端的にその験を見せます。学術がなければ理に当たらないこともあるでしょうが、その得たところはおのずと聖賢の教えにも適っています。いわゆる拙にして速ではありませんか。右の監物のことで思い知りなさい。それについて、ここに殊勝な話があります。寛永のころでしょうか、永井信濃守尚政がしきりに昇進して寵任されましたが、そのころ井伊掃部頭直孝は一代の元老でおられました。あるとき偶然会って、尚政が、私は若い身で特別の恩を受け、重職を勤めており、まことに身に余ることです、あなたは老功の方ですから、私の心得になることをお思いつきでしたら、おっしゃってください、と言うと、掃部頭はまず感心して、感心な心得です、確かにひとつ思いついたことがあるので伝授しましょう、しかし大切なことはみだりに申しがたいので、ぜひ聞きたいなら私の宅へおいでなさい、と言われました。尚政は日を定めて礼服を着し、

解説

「大敵外になし」の初段です。翁は、今の学者は義理の詮議に日を暮らして身に得るものがないが、学のない武臣は覚悟を決めて直ちに行い、結果として聖賢の教えにも適う、これも拙にして速だと述べます。そのうえで、寛永のころ、昇進を重ねた永井尚政が、元老の井伊直孝に心得を尋ねる話に入ります。直孝は感心し、大切なことなので自宅へ来るようにと言い、尚政は日を定め礼服を着て訪ねます。話は直孝の伝授の中身に入る直前で切れます。現代の仕事でも、知識を集めるだけで動けない人と、見つけたことをすぐ実行して学ぶ人がいます。学びを行動に結ぶ速さを、あらためて見直させる段です。

この章句が説くこと

学問実行拙而速井伊直孝永井尚政駿台雑話

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