論語と算盤 / 常識と習慣・何をか真才真智と謂ふ
然るに曾点は、私の考は他の人と違ひますと答へたら、孔子は違つても宜いから言へと求めた時に、曾点は『莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し舞雩に風し、詠じて而して帰らん』と言つた、そこで孔子は喟然として歎じて曰く、『吾は点に与せん』と、弟子が去つた後に曾晳といふ人が孔子に尋ねて、何故に最初子路の答をお笑になつたか、孔子曰く『国を為むるに礼を以てす、其の言譲らず、是の故に之を哂ふ』と、一国を治むるには第一に礼儀を重んぜねばならぬ、然るに自身が勇にいさむからでもあらうが、卒爾に斯くすれば宜しうござると答へたるに依つて、其の言譲らず、故に之を哂ふと言はれた、蓋し子路が吾が位地を分別せぬ所を哂はれたやうに見える、併しながら或時は孔子は極めて自負したやうな言葉もある、例へは桓魋が孔子を殺さうとした時に、門人が恐怖したら、『天徳を予に生ず、桓魋それ予を如何』と、即ち境遇に安んじて平気で居られた、
新字:然るに曽点は、私の考は他の人と違ひますと答へたら、孔子は違つても宜いから言へと求めた時に、曽点は『莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し舞雩に風し、詠じて而して帰らん』と言つた、そこで孔子は喟然として嘆じて曰く、『吾は点に与せん』と、弟子が去つた後に曽晳といふ人が孔子に尋ねて、何故に最初子路の答をお笑になつたか、孔子曰く『国を為むるに礼を以てす、其の言譲らず、是の故に之を哂ふ』と、一国を治むるには第一に礼儀を重んぜねばならぬ、然るに自身が勇にいさむからでもあらうが、卒爾に斯くすれば宜しうござると答へたるに依つて、其の言譲らず、故に之を哂ふと言はれた、蓋し子路が吾が位地を分別せぬ所を哂はれたやうに見える、併しながら或時は孔子は極めて自負したやうな言葉もある、例へは桓魋が孔子を殺さうとした時に、門人が恐怖したら、『天徳を予に生ず、桓魋それ予を如何』と、即ち境遇に安んじて平気で居られた、
書き下し
しかるに曾点は、私の考えは他の人と違いますと答えたら、孔子は違ってもよいから言えと求めた時に、曾点は「莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し舞雩に風し、詠じてしこうして帰らん」と言った。そこで孔子は喟然として歎じて曰く、「吾は点に与せん」と。弟子が去った後に曾晳という人が孔子に尋ねて、何ゆえに最初子路の答えをお笑いになったか。孔子曰く「国を為むるに礼をもってす、その言譲らず、この故にこれを哂う」と。一国を治むるには第一に礼儀を重んぜねばならぬ。しかるに自身が勇にいさむからでもあろうが、卒爾にかくすればよろしゅうござると答えたるによって、その言譲らず、ゆえにこれを哂うと言われた。けだし子路が我が位地を分別せぬ所を哂われたように見える。しかしながらある時は孔子は極めて自負したような言葉もある。例えば桓魋が孔子を殺そうとした時に、門人が恐怖したら、「天徳を予に生ず、桓魋それ予をいかん」と、すなわち境遇に安んじて平気でおられた。
現代語訳
すると曾点は、私の考えは他の人たちとは違います、と答えた。孔子が、違ってもよいから言ってみよ、と求めると、曾点は「晩春のころ、春の衣服もできあがり、若者五、六人、子ども六、七人と連れ立って、沂水で水浴びをし、舞雩の台で風に吹かれ、歌を口ずさみながら帰ってきたい」と言った。そこで孔子はため息をついて感嘆し、「私は点に賛成だ」と言った。弟子たちが去った後、曾晳(曾点の字)が孔子に、なぜ最初に子路の答えをお笑いになったのですか、と尋ねた。孔子は「国を治めるには礼をもってする。ところがあの者の言葉には謙譲がない。だから笑ったのだ」と答えた。一国を治めるには第一に礼儀を重んじなければならない。ところが子路は、自分の勇に勇み立ったからでもあろうが、軽々しく、こうすればよろしゅうございますと答えたので、その言葉に謙譲がない、だから笑ったのだと言われた。思うに、子路が自分の立場をわきまえないところを笑われたように見える。しかしながら、孔子はあるときには、きわめて自負したような言葉も口にしている。たとえば桓魋(宋の司馬)が孔子を殺そうとしたとき、門人たちが恐れると、「天が私に徳を授けたのだ。桓魋ごときが私をどうできよう」と言って、境遇に安んじて平然としておられた。
解説
関連する章句
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論語・先進篇子路・曾皙・冉有・公西華侍坐す。子曰く、「吾が一日爾より長ずるを以て、吾を以てすること毋かれ。居れば則ち曰く、『吾を知らざるなり』と。如し或るひと爾を知らば、則ち何を以てせんや。」子路率爾として対えて曰く、「千乗の国、大国の間に摂まり、之に加うるに師旅を以てし、之に因るに饑饉を以てす。由や之を為さば、三年に比び及ぶに、勇有りて且つ方を知らしむ可し。」夫子之を哂う。「求、爾は何如。」対えて曰く、「方六七十、如しくは五六十、求や之を為さば、三年に比び及ぶに、民を足らしむ可し。其の礼楽の如きは、以て君子を俟たん。」「赤、爾は何如。」対えて曰く、「之を能くすと曰うに非ず、学ばんことを願う。宗廟の事、如しくは会同に、端章甫して、小相たらんことを願う。」「点、爾は何如。」瑟を鼓すこと希なり。鏗爾として、瑟を舍きて作つ。対えて曰く、「三子者の撰に異なり。」子曰く、「何ぞ傷まんや。亦た各々其の志を言うなり。」曰く、「莫春には、春服既に成る。冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん。」夫子喟然として歎じて曰く、「吾は点に与せん。」三子者出づ。曾皙後る。曾皙曰く、「夫の三子者の言は何如。」子曰く、「亦た各々其の志を言えるのみ。」曰く、「夫子何ぞ由を哂えるか。」曰く、「国を為むるには礼を以てす。其の言譲らず、是の故に之を哂えり。」「唯だ求は則ち邦に非ざるか。」「安んぞ方六七十、如しくは五六十にして、邦に非ざる者を見んや。」「唯だ赤は則ち邦に非ざるか。」「宗廟会同は、諸侯に非ずして何ぞ。赤や之が小たらば、孰か能く之が大たらん。」
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふ自分も等しく喜びそうなものであるが、子路の喜ぶ程合いが、自己の境遇をよく知悉しなかったものと見えて、「由や勇を好む我に過ぎたり、材を取る所なし」と、かえって反対に戒めた。桴に乗って海に浮かぼうと言われた時に、子路が喜んだのであるが、もし子路がよく我が境遇を顧み知ったならば、「さあそうでもございましょうけれども、それについては海に浮かぶだけの材は、どうしたらよろしゅうございましょう」と答えたら、孔子が初めて我が意を得たりとして、それならば朝鮮へ行こうとか、日本へ行こうとか言われたかも知れぬ。またある時孔子が二三の弟子に志を言えと促した時に、最初に子路が意見を述べた。もし自己をして国を治めしむるならば、たちまちの間に一国を治平たらしむることが出来ると、卒爾として答えた。すると孔子は笑った。続いて銘々志を陳べて、最後に曾点という人が瑟を鼓していたのを、孔子が汝も何か言わぬかと促した。
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二宮翁夜話・巻之二或人(あるひと)論語曾点(そうてん)の章を問ふ、翁曰(いわ)く、此の章は左程(さほど)に六(むつ)ヶ敷(しき)訳(わ)けにはあるまじ、三子(さんし)の志余り理屈に過ぎたれば、我は点に組(くみ)せんと、一転したるのみなるべし、三子同じく皆、舞雩(ぶう)に風して詠じて帰らん、と云はば、孔子又一転して、用を節にして人を愛し、民を使ふに時を以てす、とか、言忠信行篤敬(げんちゅうしんこうとっけい)などと云ふなるべし、別に深意あるにはあらず、則(すなわ)ち前言は是に戯(たわむ)るるのみの類なるべし。
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伝習録・陸澄録問う、「孔門に志を言うに、由・求は政事に任じ、公西赤は礼楽に任ず。多少の実用ぞ。曾晳の説き来たるに及びては、却って耍(たわむれ)の事に似たり。聖人は却って他を許す。是の意は何如」と。曰く、「三子は是れ意必有り。意必有れば便ち一辺に偏著す。此を能くするも未だ必ずしも彼を能くせず。曾点の這の意思は却って意必無し。便ち是れ『其の位に素して行い、其の外を願わず。夷狄に素しては夷狄に行い、患難に素しては患難に行う。入るとして自得せざる無し』なり。三子は所謂る『汝は器なり』。曾点は便ち『器ならず』の意有り。然れども三子の才は、各々卓然として章を成す。世の空言にして実無き者の若きに非ず。故に夫子も亦た皆な之を許す」と。
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふまたある時孔子が宋に往って、帰途に大勢から囲まれ、ほとんど危害を受けそうになった。この時にも門人が憂えたら、孔子が言われるに、「天のまさに斯文を喪さんとするや、後死の者斯文に与かるを得ざるなり、天の斯文を喪さざるや、宋人それ予をいかん」と言って、泰然として一身の危害を少しも憂えなかった。またある場合には「大廟に入っては、事ごとに問う」。ある人これを怪しみて、鄹人の子は礼を知ってると言うが、大廟に入るとすべての事をうるさいほど尋ねる、あれでは礼を知ってるのではなかろうと言ったら、孔子は答えて曰く「これ礼なり」、それがすなわち礼を知ってるのだと言われた。誠に自身の境遇位地をよく知って、道理正しく活用するのがすなわち孔子の大聖人となり得る唯一の修養法であったように見える。して見ると孔子のごとき人でも、場合によって細事たりとも常に注意を怠らぬ。それがすなわち聖人に成り得る所以である。
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孔子家語・七十二弟子解曾點は、曾參の父、字は子皙。時の禮教行われざるを疾み、之を修めんと欲す、孔子善しとせり。論語に謂う所の、沂に浴し、舞雩に風するとは、是なり。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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