論語と算盤 / 常識と習慣・何をか真才真智と謂ふ
自分も等しく喜びさうなものであるが、子路の喜ぶ程合が、自己の境遇を能く知悉しなかつたものと見えて、『由や勇を好む我に過ぎたり、材を取る所なし』と、却つて反対に戒めた、桴に乗つて海に浮ばうと言はれた時に、子路が喜んだのであるが、若し子路が能く吾が境遇を顧み知つたならば、『サア左様でもございませうけれども、それに就ては海に浮ぶだけの材は、どうしたら宜うございませう』と答へたら、孔子が初めて我が意を得たりとして、それならば朝鮮へ行かうとか、日本へ行かうとか言はれたかも知れぬ、又或時孔子が二三の弟子に志を言へと促した時に、最初に子路が意見を述べた、若し自己をして国を治めしむるならば、忽ちの間に一国を治平たらしむることが出来ると、卒爾として答へた、スルト孔子は笑つた、続で銘々志を陳べて、最後に曾点といふ人が瑟を鼓して居たのを、孔子が汝も何か言はぬかと促した、
新字:自分も等しく喜びさうなものであるが、子路の喜ぶ程合が、自己の境遇を能く知悉しなかつたものと見えて、『由や勇を好む我に過ぎたり、材を取る所なし』と、却つて反対に戒めた、桴に乗つて海に浮ばうと言はれた時に、子路が喜んだのであるが、若し子路が能く吾が境遇を顧み知つたならば、『サア左様でもございませうけれども、それに就ては海に浮ぶだけの材は、どうしたら宜うございませう』と答へたら、孔子が初めて我が意を得たりとして、それならば朝鮮へ行かうとか、日本へ行かうとか言はれたかも知れぬ、又或時孔子が二三の弟子に志を言へと促した時に、最初に子路が意見を述べた、若し自己をして国を治めしむるならば、忽ちの間に一国を治平たらしむることが出来ると、卒爾として答へた、スルト孔子は笑つた、続で銘々志を陳べて、最後に曽点といふ人が瑟を鼓して居たのを、孔子が汝も何か言はぬかと促した、
書き下し
自分も等しく喜びそうなものであるが、子路の喜ぶ程合いが、自己の境遇をよく知悉しなかったものと見えて、「由や勇を好む我に過ぎたり、材を取る所なし」と、かえって反対に戒めた。桴に乗って海に浮かぼうと言われた時に、子路が喜んだのであるが、もし子路がよく我が境遇を顧み知ったならば、「さあそうでもございましょうけれども、それについては海に浮かぶだけの材は、どうしたらよろしゅうございましょう」と答えたら、孔子が初めて我が意を得たりとして、それならば朝鮮へ行こうとか、日本へ行こうとか言われたかも知れぬ。またある時孔子が二三の弟子に志を言えと促した時に、最初に子路が意見を述べた。もし自己をして国を治めしむるならば、たちまちの間に一国を治平たらしむることが出来ると、卒爾として答えた。すると孔子は笑った。続いて銘々志を陳べて、最後に曾点という人が瑟を鼓していたのを、孔子が汝も何か言わぬかと促した。
現代語訳
孔子自身も同じように喜びそうなものだが、子路の喜びようが、自分の境遇をよくわきまえていないものに見えたのだろう。「由は勇を好むことでは私以上だが、いかだの材木を取ってくる当てがない」と、かえって逆に戒めた。いかだに乗って海に浮かぼうと言われたときに子路は喜んだのだが、もし子路が自分の境遇をよく顧みていたなら、「さあ、それはそうでもございましょうが、それにつけても、海に浮かぶだけの材木はどういたしましょう」と答えただろう。そうすれば孔子は初めて我が意を得たりとして、それなら朝鮮へ行こうとか、日本へ行こうとか言われたかもしれない。また、あるとき孔子が二、三人の弟子に志を述べよと促したとき、最初に子路が意見を述べた。もし自分に国を治めさせてくれるなら、たちまち一国を平らかに治めてみせる、と軽々しく答えた。すると孔子は笑った。続いてそれぞれが志を述べ、最後に曾点という人が瑟を弾いていたのを、孔子が、お前も何か言わないか、と促した。
解説
関連する章句
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論語・公冶長篇子曰く、「道行われず、桴に乗りて海に浮かばん。我に従わん者は、其れ由か。」子路之を聞きて喜ぶ。子曰く、「由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無し。」
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふゆえにお互いに皆、孔子のごとき大聖人になるということは不可能か知らぬけれども、我が境遇位地をこれ誤らぬだけのことが出来るならば、少なくとも通常人以上になり得ることは難くないだろうと思う。しかるに世間はこの反対に走るもので、ちょっと調子が良いと、すぐに我が境遇を忘れて分量不相応の考えも出す。またある困難の事に遭遇すると、我が位置を失して打ち萎れてしまう。すなわち幸いに驕り災いに哀しむのが凡庸人の常である。
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふしかるに曾点は、私の考えは他の人と違いますと答えたら、孔子は違ってもよいから言えと求めた時に、曾点は「莫春には春服既に成り、冠者五六人、童子六七人、沂に浴し舞雩に風し、詠じてしこうして帰らん」と言った。そこで孔子は喟然として歎じて曰く、「吾は点に与せん」と。弟子が去った後に曾晳という人が孔子に尋ねて、何ゆえに最初子路の答えをお笑いになったか。孔子曰く「国を為むるに礼をもってす、その言譲らず、この故にこれを哂う」と。一国を治むるには第一に礼儀を重んぜねばならぬ。しかるに自身が勇にいさむからでもあろうが、卒爾にかくすればよろしゅうござると答えたるによって、その言譲らず、ゆえにこれを哂うと言われた。けだし子路が我が位地を分別せぬ所を哂われたように見える。しかしながらある時は孔子は極めて自負したような言葉もある。例えば桓魋が孔子を殺そうとした時に、門人が恐怖したら、「天徳を予に生ず、桓魋それ予をいかん」と、すなわち境遇に安んじて平気でおられた。
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふそしてその常識の発達については、第一に必要なるは己れの境遇に注意するにある。ゆえにこれを文字にて示そうものなら、「人は自己の境遇によく注意をせねばならぬ」ということになろうと思う。この文字はあるいは適当でないかも知らぬが――私は西洋の格言などはあまり知らぬから、常に東洋の経書についてのみ例を引くが、論語に自己の境遇について注意を篤くすることを教えた例が、あるいは大きい場合、あるいは小さい場合に数多く見える。ゆえに大聖人の孔子でも、やはり自己の境遇に適することを勉めた。また他に対してもその境遇に不適当なる時は、必ずそれに賛同を与えぬ。一例を言えば、孔子が「道が行われぬから桴に乗って海に浮かぼう、我に従うものはそれ由か」と子路を促した。「子路これを聞いて喜ぶ」。これは孔子がちょっと意地の悪いようなことで、自分が問いを掛けたのだから、子路が喜んだろう。
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論語・先進篇子路・曾皙・冉有・公西華侍坐す。子曰く、「吾が一日爾より長ずるを以て、吾を以てすること毋かれ。居れば則ち曰く、『吾を知らざるなり』と。如し或るひと爾を知らば、則ち何を以てせんや。」子路率爾として対えて曰く、「千乗の国、大国の間に摂まり、之に加うるに師旅を以てし、之に因るに饑饉を以てす。由や之を為さば、三年に比び及ぶに、勇有りて且つ方を知らしむ可し。」夫子之を哂う。「求、爾は何如。」対えて曰く、「方六七十、如しくは五六十、求や之を為さば、三年に比び及ぶに、民を足らしむ可し。其の礼楽の如きは、以て君子を俟たん。」「赤、爾は何如。」対えて曰く、「之を能くすと曰うに非ず、学ばんことを願う。宗廟の事、如しくは会同に、端章甫して、小相たらんことを願う。」「点、爾は何如。」瑟を鼓すこと希なり。鏗爾として、瑟を舍きて作つ。対えて曰く、「三子者の撰に異なり。」子曰く、「何ぞ傷まんや。亦た各々其の志を言うなり。」曰く、「莫春には、春服既に成る。冠者五六人、童子六七人、沂に浴し、舞雩に風し、詠じて帰らん。」夫子喟然として歎じて曰く、「吾は点に与せん。」三子者出づ。曾皙後る。曾皙曰く、「夫の三子者の言は何如。」子曰く、「亦た各々其の志を言えるのみ。」曰く、「夫子何ぞ由を哂えるか。」曰く、「国を為むるには礼を以てす。其の言譲らず、是の故に之を哂えり。」「唯だ求は則ち邦に非ざるか。」「安んぞ方六七十、如しくは五六十にして、邦に非ざる者を見んや。」「唯だ赤は則ち邦に非ざるか。」「宗廟会同は、諸侯に非ずして何ぞ。赤や之が小たらば、孰か能く之が大たらん。」
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『論語と算盤』常識と習慣・人生は努力にあり人の世に成功するの要素として、智の必要なること、すなわち学問の必要なることはもちろんであるが、それのみをもって直ちに成功し得るものと思うは大なる誤解である。論語に「子路曰く、民人あり、社稷あり、何ぞ必ずしも書を読みて、しかる後に学ぶと為ん」とある。これは孔子の門人の子路の言である。すると孔子は「この故にかの佞者を悪む」と答えられた。この意は「口ばかりで、事実行われなくては駄目である」ということである。予はこの子路の言を善しと思っている。されば机上の読書のみを学問と思うのは甚だ不可のことである。
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