論語と算盤 / 常識と習慣・親切らしき不親切
如何に傾国の美人と雖も、汚穢を蒙つて居ては、誰とて側へ寄る人はなからう、それと同時に、内心如夜叉でも嫋々婀娜として居れば、知らず識らず迷ふのが人情である、だから志の善悪よりは所作の善悪が人の眼に着き易い、従つて巧言令色が世に時めき、諫言は耳に逆ひ、兎もすれば忠恕の志ある真面目な人が貶黜せられて天道是か非かの嘆声を洩すに引きかへ、わるがしこい人前の上手な人が比較的成功し信用さる〻場合のある所以である。
書き下し
いかに傾国の美人といえども、汚穢を蒙っていては、誰とて側へ寄る人はなかろう。それと同時に、内心如夜叉でも嫋々婀娜としていれば、知らず識らず迷うのが人情である。だから志の善悪よりは所作の善悪が人の眼に着きやすい。従って巧言令色が世に時めき、諫言は耳に逆らい、ともすれば忠恕の志ある真面目な人が貶黜せられて天道是か非かの嘆声を洩らすに引きかえ、悪賢い人前の上手な人が比較的成功し信用さるる場合のある所以である。
現代語訳
国を傾けるほどの美人であっても、汚物をかぶっていては、誰も側へ寄ろうとはしないだろう。それと同時に、内心は夜叉のようであっても、なよやかで艶っぽくしていれば、知らず知らずのうちに迷ってしまうのが人情である。だから志の善悪よりも、所作の善悪のほうが人の目につきやすい。そのため、口先がうまく愛想のよい者が世にもてはやされ、耳の痛い諫言は嫌われ、ともすれば忠恕の志のある真面目な人が退けられて「天道は是か非か」と嘆く一方で、悪賢く人前の上手な人がわりあい成功し、信用されるという場合があるのは、このためである。
解説
章の結びである。傾国の美人も汚物をかぶれば人は避け、内心が夜叉でも外見がしなやかなら人は迷う。「外面如菩薩内心如夜叉」という俗諺を踏まえた比喩で、渋沢は人が見るのは結局外に現れた所作だと念を押す。そこから論語の「巧言令色、鮮なし仁」が生きてくる。口がうまく顔色をつくる者は仁が少ないと孔子は戒めたが、現実には巧言令色の者が時めき、諫言は耳に逆らう。誠実な者が退けられて天道是か非かと嘆くのは、こうした仕組みによる、と渋沢は章の冒頭の問いに答えを返す。ここで彼は、世の中が間違っていると嘆くだけで終わらせていない。所作が見られるという現実を前提に、誠実な志を持つ者こそ所作を磨かねばならない、というのが章全体から導かれる結論である。正しいことを言っているのに通らない、という経験を持つ人にとって、自分の伝え方と振る舞いを見直す手がかりになる一段である。
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切世間には冷酷無情にしていささかも誠意なく、その行動の常に奇矯不真面目なものがかえって社会の信用を受け、成功の栄冠を戴きいるに、これに反して至極真面目にして誠意篤く、いわゆる忠恕の道に契ったものがかえって世に疎ぜられ落伍者となる場合がいくらもある。天道は果たして是か非か、この矛盾を研究するのは誠に興味ある問題である。思うに人の行為の善悪は、その志と所作と相まって較量せねばなるまい。志がいかに真面目で忠恕の道に契っていても、その所作が遅鈍であるとか、放僻邪肆では何にもならぬ。志においてはあくまで人のためになれかしと思っていても、その所作が人の害となるようでは善行と言われぬ。昔の小学読本に、「親切のかえって不親切になりし話」と題して、雛が孵化せんとして卵の殻から離れずに困っているのを見て、親切な子供が殻を剝いてやった所が、かえって死んでしまったという話があるが、孟子にもこれと同じような例がたくさんあったように記憶する。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、その人は成功する。行為の本である志が曲がっていても所作が正しいという理屈は、厳格に言えばあろうはずはないが、聖人も欺くに道をもってすれば与しやすきがごとく、実社会においても人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを措くがゆえに、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすきがゆえに、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用されやすい。例えば将軍吉宗公が巡視された時、親孝行の者が老母を背負って拝観に出て褒美をもらった。ところが、平素不良の一無頼漢がこれを聞いて、それでは俺も一つ褒美をもらってやろうと、他人の老婆を借りて背負って拝観に出かけた。吉宗公がこれに褒美を下さると、側役人から彼は褒美をもらわんための偽孝行であると故障を申し立てた。すると吉宗公は、いや真似は結構であると篤く労われたということである。また孟子の言に、「西子も不潔を蒙らば、すなわち人皆鼻を掩うてこれを過ぐ」というのがある。
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『論語と算盤』常識と習慣・正に就き邪に遠ざかるの道およそ事物に対し「かくせよ」「かくするな」というがごとき正邪曲直の明瞭なる者は、直ちに常識的判断を下し得るが、場合によってはそれも出来かねることがある。
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『論語と算盤』成敗と運命・それ唯忠恕のみさればと言うてその内容にのみ腐心して形式を疎外視することもよろしくない。およそ各種の事業として、内外共に権衡を欠いてはならぬ。要するに、単にその表面を衒わんがため、いたずらに形式にのみ囚わるるということは、最も注意してこれを避けねばならぬ。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切苗を長ぜしめるには水の加減、肥料の加減、草を刈り除くことによらなければならぬのに、これを引き抜いて長ぜしめようとするのはいかにも乱暴である。孟子の不動心術の可否はともかく、世間おうおうにして苗を助けて長ぜしむるの行為あることは争われぬ事実である。苗を長ぜしめたいというその志は誠に善であるが、これを抜くという所作が悪である。この意味を拡充して考えると、志がいかに善良で忠恕の道に適っていても、その所作がこれに伴わなければ、世の信用を受けることが出来ぬ訳である。
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『論語と算盤』常識と習慣・悪んで其の美を知れつまり道理ある所には自ら進んで世話をしてやる気になるのであるが、そういうことも後日になって見ると、あの人は善くなかった、あの事柄は見違えたということが無いではない。しかし悪人必ずしも悪に終わるものでなく、善人必ずしも善を遂げるものとも限らぬから、悪人を悪人として憎まず、出来るものならその人を善に導いてやりたいと考え、最初より悪人たることを知りつつ世話してやることもある。
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