論語と算盤 / 常識と習慣・親切らしき不親切
之に反して、志が多少曲つて居ても、其の所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、其人は成功する、行為の本である志が曲つて居ても所作が正しいといふ理窟は、厳格に言へば有らう筈はないが、聖人も欺くに道を以てすれば与し易きが如く、実社会に於ても人の心の善悪よりは、其の所作の善悪に重きを措くが故に、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別し易きが故に、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用され易い、例へば将軍吉宗公が巡視された時、親孝行の者が老母を背負て拝観に出て褒美を貰ふた、所が、平素不良の一無頼漢が之を聞いて、それでは俺も一つ褒美を貰うてやらうと、他人の老婆を借りて背負うて拝観に出かけた、吉宗公が之に褒美を下さると、側役人から彼は褒美を貰はん為の偽孝行であると故障を申立てた、すると吉宗公は、イヤ真似は結構であると篤く労はられたといふことである、又孟子の言に、『西子も不潔を蒙らば、則ち人皆鼻を掩うて之を過ぐ』といふのがある、
書き下し
これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、その人は成功する。行為の本である志が曲がっていても所作が正しいという理屈は、厳格に言えばあろうはずはないが、聖人も欺くに道をもってすれば与しやすきがごとく、実社会においても人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを措くがゆえに、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすきがゆえに、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用されやすい。例えば将軍吉宗公が巡視された時、親孝行の者が老母を背負って拝観に出て褒美をもらった。ところが、平素不良の一無頼漢がこれを聞いて、それでは俺も一つ褒美をもらってやろうと、他人の老婆を借りて背負って拝観に出かけた。吉宗公がこれに褒美を下さると、側役人から彼は褒美をもらわんための偽孝行であると故障を申し立てた。すると吉宗公は、いや真似は結構であると篤く労われたということである。また孟子の言に、「西子も不潔を蒙らば、すなわち人皆鼻を掩うてこれを過ぐ」というのがある。
現代語訳
これとは逆に、志が多少曲がっていても、所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、その人は成功する。行為の本である志が曲がっていながら所作が正しいという理屈は、厳密に言えばあるはずがない。だが、聖人でも筋の通った理屈で欺けば容易にだまされるように、実社会でも、人の心の善悪よりも所作の善悪に重きを置くし、また心の善悪よりも行為の善悪のほうが見分けやすいので、どうしても所作が機敏で善い者のほうが信用されやすいのである。たとえば、将軍吉宗公(徳川吉宗)が巡視されたとき、親孝行の者が老母を背負って拝観に出て、褒美をもらった。すると、ふだん素行の悪い一人の無頼漢がそれを聞いて、それなら自分も一つ褒美をもらってやろうと、他人の老婆を借りて背負い、拝観に出かけた。吉宗公がこの男にも褒美を下さると、側役人が、あれは褒美欲しさの偽の孝行ですと異議を申し立てた。すると吉宗公は、いや、真似は結構なことだと言って、手厚くねぎらわれたということである。また孟子の言葉に、「西施(古代の美女)でも汚物をかぶっていれば、人は皆鼻をおおって通り過ぎる」というのがある。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切いかに傾国の美人といえども、汚穢を蒙っていては、誰とて側へ寄る人はなかろう。それと同時に、内心如夜叉でも嫋々婀娜としていれば、知らず識らず迷うのが人情である。だから志の善悪よりは所作の善悪が人の眼に着きやすい。従って巧言令色が世に時めき、諫言は耳に逆らい、ともすれば忠恕の志ある真面目な人が貶黜せられて天道是か非かの嘆声を洩らすに引きかえ、悪賢い人前の上手な人が比較的成功し信用さるる場合のある所以である。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切世間には冷酷無情にしていささかも誠意なく、その行動の常に奇矯不真面目なものがかえって社会の信用を受け、成功の栄冠を戴きいるに、これに反して至極真面目にして誠意篤く、いわゆる忠恕の道に契ったものがかえって世に疎ぜられ落伍者となる場合がいくらもある。天道は果たして是か非か、この矛盾を研究するのは誠に興味ある問題である。思うに人の行為の善悪は、その志と所作と相まって較量せねばなるまい。志がいかに真面目で忠恕の道に契っていても、その所作が遅鈍であるとか、放僻邪肆では何にもならぬ。志においてはあくまで人のためになれかしと思っていても、その所作が人の害となるようでは善行と言われぬ。昔の小学読本に、「親切のかえって不親切になりし話」と題して、雛が孵化せんとして卵の殻から離れずに困っているのを見て、親切な子供が殻を剝いてやった所が、かえって死んでしまったという話があるが、孟子にもこれと同じような例がたくさんあったように記憶する。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切苗を長ぜしめるには水の加減、肥料の加減、草を刈り除くことによらなければならぬのに、これを引き抜いて長ぜしめようとするのはいかにも乱暴である。孟子の不動心術の可否はともかく、世間おうおうにして苗を助けて長ぜしむるの行為あることは争われぬ事実である。苗を長ぜしめたいというその志は誠に善であるが、これを抜くという所作が悪である。この意味を拡充して考えると、志がいかに善良で忠恕の道に適っていても、その所作がこれに伴わなければ、世の信用を受けることが出来ぬ訳である。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべししかるに世人はこの種の人物を成功者として尊敬し羨望し、青年後進の徒もまたこれを目標として、何とかしてその塁を摩せんとするに腐心する所より、悪風滔々として底止するところを知らざる勢いとなっている。かく言えば、我が商業者のすべては皆不信背徳の醜漢のようであるが、孟子も「人の性は善なり」と言えるごとく、善悪の心は人皆これあれば、中には君子的人物であって、深く商業道徳の頽廃を慨し、これが救済に努力している者も尠くないが、何にせよ既往数百年来の弊習を遺伝し、功利の学説によりて悪しき方面の智巧を加えたる者を、一朝有道の君子たらしむるは容易に望み得らるべきでは無い。さりとてそれをこのままに放任するは、根なき枝に葉を繁らし、幹なき樹に花を開かしめんとするものにて、国本培養も商権拡張も、到底得て望むべきにあらざれば、
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『論語と算盤』常識と習慣・動機と結果私は志の曲がった軽薄才子は嫌いである。いかに所作が巧みでも、誠意のない人はともに伍するを懌ばないが、しかし神ならぬ身には人の志まで見抜くということは容易でないから、自然志の良否はともかく、所作の巧みな人間に利用されぬとも限らぬのである。かの陽明説のごときは、知行合一とか良知良能とか言って、志に思うことがそれ自身行為に現れるのであるから、志が善ならば行為も善、行為が悪ならば志も悪でなければならぬが、私ども素人考えでは、志が善でも所作が悪になることもあり、また所作が善でも志が悪なることもあるように思われる。私は西洋の倫理学や哲学というようなことは少しも知らぬ。ただ四書や宋儒の学説によって、多少性論や処世の道を研究しただけであるが、私の如上の意見に対して、期せずしてパウルゼンの倫理説と合一するというものがある。その人の言うには、英国のミュアヘッドという倫理学者は、動機さえ善ならば、結果は悪でもよいという。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切文句は一々覚えていないが、人のためを計ると言っても、その室に闖入してその戸を破る、これをしも忍ぶかと言ったような意味や、それから梁の恵王が政事を問うた時に、「庖に肥肉あり、厩に肥馬あり、民に饑色あり、野に餓莩あり、これ獣を率いて人を食ましむるものなり」と言って、刃をもって人を殺すも、政事をもって人を殺すも、同じだと断定している。それから告子と不動心説を論じた所に、「心に得ずとも気に求むることなかれとは可なれども、言に得ずも心に求むることなかれとは不可なり、それ志は気の帥なり、気は体の充てるなり、それ志は至れり、気は次ぐ、ゆえに曰く、その志を持してその気を暴うことなかれ」とある。これは志はすなわち心の本で、気は心の所作となって現れる末である。志は善で忠恕の道に契っていても、出来心と言ってふと志に適わぬことをすることが往々ある。だからその本心を持して出来心たる気を暴わぬよう、すなわち所作に間違いのないように不動心術の修養が肝要である。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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