論語と算盤 / 常識と習慣・偉き人と完き人
史乗などに見ゆる所の英雄豪傑には、兎角智情意の三者の権衡を失した者が多いやうである、乃ち意志が非常に強かつたけれども智識が足りなかつたとか、意志と智慧とは揃うて居たが、情愛に乏しかつたとかいふが如き性格は、彼等の間に幾らもあつた、斯の如きものは如何に英雄でも豪傑でも常識的の人とは謂はれない、成る程、一面から見れば非常に偉い点がある、超凡的な所がある、普通一般人の企及すべからざる点があるには相違ないが、
書き下し
史乗などに見ゆる所の英雄豪傑には、とかく智情意の三者の権衡を失した者が多いようである。すなわち意志が非常に強かったけれども智識が足りなかったとか、意志と智慧とは揃っていたが、情愛に乏しかったとかいうがごとき性格は、彼らの間にいくらもあった。かくのごときものはいかに英雄でも豪傑でも常識的の人とは言われない。なるほど、一面から見れば非常に偉い点がある、超凡的な所がある、普通一般人の企及すべからざる点があるには相違ないが。
現代語訳
歴史書などに見える英雄豪傑には、とかく智・情・意の三つの釣り合いを欠いた者が多いようである。意志はとても強かったが知識が足りなかったとか、意志と知恵はそろっていたが情愛に乏しかったとかいった性格は、彼らの間にいくらでもあった。こうした人は、どれほどの英雄豪傑であっても、常識的な人とは言えない。なるほど、一面から見ればたいへん偉いところがあり、凡人を超えたところがあり、普通の人にはとても及ばない点があるには違いないのだが。
解説
「偉き人と完き人」の章の書き出しである。渋沢はこの本で、常識を智・情・意の三つが釣り合って備わった状態として説いており、ここではその物差しを歴史上の英雄豪傑に当てる。意志は強いが知が足りない、知と意はあるが情に乏しい。そうした偏りを持つ者は、どれほど偉くても常識の人とは呼べない、と言い切る。ただし彼は英雄を貶めているわけではない。段の終わりでは、一面から見れば非常に偉く、凡人の及ばないところがある、と認めている。文が「相違ないが」で途切れるように次へ続くのは、この後で、それでも社会に多く必要なのは別の型の人間だ、と論を転じるためである。幕末維新の激動をくぐり抜けてきた渋沢には、突出した個人の力とその危うさの両方が身近だったのだろう。組織が人を評価するときにも、突出した長所と大きな欠落の組み合わせをどう扱うかは、今なお変わらない問いである。
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・偉き人と完き人偉き人と完き人とは大いに違う。偉い人は人間の具有すべき一切の性格にたとい欠陥があるとしても、その欠陥を補って余りあるだけ他に超絶した点のある人で、完全なる人に比すれば、言わば変態である。それに反して完き人は、智情意の三者が円満に具足した者、すなわち常識の人である。余はもちろん偉い人の輩出を希望するのであるけれども、社会の多数人に対する希望としては、むしろ完き人の世に隈なく満たんことを欲する。つまり常識の人の多からんことを要望する次第である。偉い人の用途は無限とは言えぬが、完き人ならいくらでも必要な世の中である。
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『論語と算盤』常識と習慣・偉き人と完き人社会の諸設備が今日のごとく整頓し発達している際には、常識に富んだ人がたくさんにいて働けば、それで何らの欠乏も不足もない訳で、偉い人の必要は、ある特殊の場合を除いては、これを認むることが出来ない。およそ人の青年期ほど思想が一定せず、奇を好んで突飛な行動に出でんとする時代は少なかろう。それも年を経るに従い、次第に着実になって行くものだが、青年時代には多くの人の心は浮動している。しかるに常識というものはその性質が極めて平凡なものであるから、奇矯を好み突飛を好む青年時代に、この平凡な常識を修養せよというは、彼らの好奇心と相反する所があろう。偉い人になれと言わるれば進んでこれに賛成するが、完き人となれと言わるれば、その多くはこれを苦痛に感ずるのが彼らの通有性である。
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『論語と算盤』常識と習慣・何をか真才真智と謂ふおよそ人の世に立つについて最も肝要なるものは、智慧を増して行かねばならぬ。すべて一身の発達、国家の公益を図るにも、智識というものがなければ進んで行くことは出来ぬけれども、しかしそれ以上に人は人格というものを養って行かなくてはならぬ。いわゆる人格の修養、これは極めて大切なことだろうと思う。ただし人格という定義はいかに論断せらるるか知らないが、稀には少しは非常識ともいうべき英雄豪傑に人格崇高な人があるから、果たして人格と常識が必ず一致するものであろうかどうか。人が完全に役に立ち、公にも私にも、必要にしていわゆる真才真智というのは、多くは常識の発達にあると言っても誤りないと思うのである。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものかすなわち事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。これを学理的に解釈すれば「智、情、意」の三者がおのおの権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。さらに換言すれば、普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力がすなわちそれである。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものか人間の心を解剖して「智、情、意」の三つに分解したものは心理学者の唱道に基づく所であるが、何人といえどもこの三者の調和が不必要と認めるものはなかろうと思う。智恵と情愛と意志との三者があってこそ、人間社会の活動も出来、物に接触して効能をも現してゆけるものである。ゆえに常識の根本原則たる「智、情、意」の三者について少しく述べて見ようと思う。
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『論語と算盤』常識と習慣・偉き人と完き人しかしながら政治の理想的に行わるるも国民の常識にまち、産業の発達進歩も実業家の常識に負う所が多いとすれば、否でも常識の修養に熱中しなければならぬではないか。いわんや社会の実際に徴するに、政治界でも、実業界でも、深奥なる学識というよりは、むしろ健全なる常識ある人によって支配されているを見れば、常識の偉大なることは言うまでもないのである。
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