論語と算盤 / 常識と習慣・偉き人と完き人
偉き人と完き人とは大に違ふ、偉い人は人間の具有すべき一切の性格に仮令欠陥があるとしても、其の欠陥を補うて余りあるだけ他に超絶した点のある人で、完全なる人に比すれば、謂は〻゙変態である、夫に反して完き人は、智情意の三者が円満に具足した者、即ち常識の人である、余は勿論偉い人の輩出を希望するのであるけれども、社会の多数人に対する希望としては、寧ろ完き人の世に隈なく充たんことを欲する、詰り常識の人の多からんことを要望する次第である、偉い人の用途は無限とは云へぬが、完き人なら幾らでも必要な世の中である
書き下し
偉き人と完き人とは大いに違う。偉い人は人間の具有すべき一切の性格にたとい欠陥があるとしても、その欠陥を補って余りあるだけ他に超絶した点のある人で、完全なる人に比すれば、言わば変態である。それに反して完き人は、智情意の三者が円満に具足した者、すなわち常識の人である。余はもちろん偉い人の輩出を希望するのであるけれども、社会の多数人に対する希望としては、むしろ完き人の世に隈なく満たんことを欲する。つまり常識の人の多からんことを要望する次第である。偉い人の用途は無限とは言えぬが、完き人ならいくらでも必要な世の中である。
現代語訳
偉い人と完き人とは大きく違う。偉い人とは、人間が備えるべき性格のどこかに欠けたところがあっても、それを補って余りあるほど、他に飛び抜けた点のある人だ。完全な人と比べれば、いわば変わり種である。これに対して完き人とは、智・情・意の三つが円満に備わった者、すなわち常識の人である。私はもちろん偉い人が輩出することを望むけれども、社会の多くの人に望むこととしては、むしろ完き人が世にあまねく満ちることを願う。つまり常識の人が多くあってほしいのだ。偉い人の使いどころは無限とは言えないが、完き人ならいくらでも要る世の中である。
解説
この章句が説くこと
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論語・述而篇子曰く、「聖人は、吾得て之を見ず。君子者を見るを得ば、斯れ可なり。」子曰く、「善人は、吾得て之を見ず。恒有る者を見るを得ば、斯れ可なり。亡くして有りと為し、虚しくして盈てりと為し、約にして泰かなりと為す。難いかな恒有ること。」
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『墨子』非儒下夫れ一に道術學業とは、仁義なり。昔、大にしては以て人を治め、小にしては以て官に任じ、逺くしては施し、用いては偏く、近くしては以て身を循む。不義には處らず、非理には行わず。務めて天下の利を興し、曲直周旋、利あれば則ち止まる。此れ君子の道なり。聞く所の孔丘の行いを以てすれば、則ち本より此と相い反謬するなり。
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『学問のすゝめ』十一編・名分をもって偽君子を生ずるの論・詰まるところは飼犬に手を噛まるるものあるいはまれに正直なる役人ありて賄賂の沙汰も聞こえざれば、前代未聞の名臣とて一藩中の評判なれども、その実はわずかに銭を盗まざるのみ。人に盗心なければとてさまで誉むべきことにあらず。ただ偽君子の群集するその中に十人並みの人が雑るゆえ、格別に目立つまでのことなり。畢竟この偽君子の多きもその本を尋ぬれば古人の妄想にて、世の人民をばみな結構人にして御しやすきものと思い込み、その弊ついに専制抑圧に至り、詰まるところは飼犬に手を噛まるるものなり。返す返すも世の中に頼みなきものは名分なり。毒を流すの大なるものは専制抑圧なり。恐るべきにあらずや。
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『韓非子』觀行第二十四故に鏡には疵を見はすの罪無く、道には過ちを明らかにするの怨み無し。
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『墨子』尚賢下子墨子言いて曰く、「天下の王公大人は皆な其の國家の富み、人民の衆く、刑法の治まるを欲す。然れども尚賢を以て政を為して其の國家百姓を治むるを識らず。王公大人、本より尚賢の政を為すの本を失えるなり。若し茍くも王公大人、本より尚賢の政を為すの本を失わば、則ち物を舉げて之に示す毋くんばある能わざらんや。今、若し一諸侯、此に有りて、國家に政を為すや、曰く、『凡そ我が國の能く射御する士は、我れ將に之を賞し貴くせんとす。射御する能わざる士は、我れ將に之を罪し賤しくせんとす』と。若の國の士に問う、孰か喜び孰か懼れんと。我れ以て必ず能く射御する士は喜び、射御する能わざる士は懼れんと為す。我れ賞して因りて之を誘わん、曰く、『凡そ我が國の忠信の士は、我れ將に之を賞し貴くせんとす。忠信ならざる士は、我れ將に之を罪し賤しくせんとす』と。」
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