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論語と算盤 / 常識と習慣・口は禍福の門なり

啞は此の世の中に於て如何なる用を弁じ得るか。余の如きは多弁の為に禍もあるが、是に由つてまた福も来るのである、例へば、沈黙して居ては解らぬのであるけれども、一寸口を開いた為に、人の困難な場合を救うてやることが出来たとか、或はよく喋ることが好きだから、何かのことにあの人を頼んで口を利いて貰つたら宜しからうと頼まれて、物事の調停をしてやつたとか、或は口舌のある為めに種々の仕事を見出すことが出来たとかいふやうに、総て口舌が無かつたら、それらの福は来るものでないと思ふ、して見れば、これらは誠に口舌より得る利益である、口は禍の門であると共に福の門でもある、芭蕉の句に『ものいへは唇寒し秋の風』といふのがある、これも要するに口は禍の門といふことを文学化したものであらうけれども、斯ういふ具合に禍の方ばかり見ては消極的になり過ぎる、極端に解釈すれば、ものを言ふことが出来ないことになる、それでは余り範囲が狭過ぎるのである。

新字:唖は此の世の中に於て如何なる用を弁じ得るか。余の如きは多弁の為に禍もあるが、是に由つてまた福も来るのである、例へば、沈黙して居ては解らぬのであるけれども、一寸口を開いた為に、人の困難な場合を救うてやることが出来たとか、或はよく喋ることが好きだから、何かのことにあの人を頼んで口を利いて貰つたら宜しからうと頼まれて、物事の調停をしてやつたとか、或は口舌のある為めに種々の仕事を見出すことが出来たとかいふやうに、総て口舌が無かつたら、それらの福は来るものでないと思ふ、して見れば、これらは誠に口舌より得る利益である、口は禍の門であると共に福の門でもある、芭蕉の句に『ものいへは唇寒し秋の風』といふのがある、これも要するに口は禍の門といふことを文学化したものであらうけれども、斯ういふ具合に禍の方ばかり見ては消極的になり過ぎる、極端に解釈すれば、ものを言ふことが出来ないことになる、それでは余り範囲が狭過ぎるのである。

書き下し

啞はこの世の中においていかなる用を弁じ得るか。余のごときは多弁のために禍もあるが、これによってまた福も来るのである。例えば、沈黙していては解らぬのであるけれども、ちょっと口を開いたために、人の困難な場合を救うてやることが出来たとか、あるいはよく喋ることが好きだから、何かのことにあの人を頼んで口を利いてもらったらよろしかろうと頼まれて、物事の調停をしてやったとか、あるいは口舌のあるために種々の仕事を見出すことが出来たとかいうように、すべて口舌が無かったら、それらの福は来るものでないと思う。してみれば、これらはまことに口舌より得る利益である。口は禍の門であるとともに福の門でもある。芭蕉の句に「ものいえば唇寒し秋の風」というのがある。これも要するに口は禍の門ということを文学化したものであろうけれども、こういう具合に禍の方ばかり見ては消極的になり過ぎる。極端に解釈すれば、ものを言うことが出来ないことになる。それではあまり範囲が狭過ぎるのである。

現代語訳

口のきけない人のように黙っていては、この世の中でどんな用を足すことができるだろうか。私などは多弁のために禍を招くこともあるが、それによってまた福も来るのである。たとえば、黙っていてはわからないことでも、ちょっと口を開いたおかげで、人の困っている場面を救ってやることができたとか、あるいは、あの人はよくしゃべるのが好きだから、何かのことで頼んで口をきいてもらったらよかろうと頼まれて、物事の調停をしてやったとか、あるいは、口が達者なおかげでいろいろな仕事を見つけることができたとかいうように、すべて口がなかったら、そうした福は来るものではないと思う。してみれば、これらはまことに口から得る利益である。口は禍の門であるとともに、福の門でもある。芭蕉の句に「もの言えば唇寒し秋の風」というのがある。これも要するに、口は禍の門ということを文学にしたものであろうが、こんなふうに禍のほうばかり見ていては消極的になりすぎる。極端に解釈すれば、ものを言うことができなくなってしまう。それではあまりに範囲が狭すぎるのである。

解説

「口は禍の門」という古い戒めに、渋沢は「福の門でもある」と半分を書き足す。挙げる福は具体的だ。一言で人の窮地を救えた。話し好きだからと調停を頼まれ、争いを収めた。口が利けるおかげで仕事が見つかった。渋沢は実業界の世話役として、会社の設立や合併、株主や関係者の争いの仲裁に数えきれないほど立った人である。その経験から言えば、黙っていては生まれない福が確かにある。芭蕉の「ものいへば唇寒し秋の風」は、人の短所を言い己の長所を説くことを戒めた句として知られる。渋沢はこれを口は禍の門の文学化と見たうえで、禍ばかり見れば消極に過ぎると退ける。冒頭の「啞」は当時の表現で今日では用いない語だが、趣旨は言葉を使わないことの損失にある。会議で黙っていることを慎重さと取り違えないための一段である。

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