論語と算盤 / 常識と習慣・口は禍福の門なり
余は平素多弁の方で、能く種々の場合に口を出し、或は演説なぞも処嫌はず頼まれ〻ばやるので、知らず識らず言ひ過ぎることなぞあつて、人から屢々揚足を取られたり、笑はれたりすることがある、併し如何に揚足を取られやうが笑はれやうが、余は一度口にして言ふ以上は、必ず心にもないことは言はぬといふ主義である、従つて自分自身では妄語したとは思つて居らない、或は世人には妄語と聞える場合がないでもなからうが、少くとも自分は確信のある所を口にした積りで居る、
新字:余は平素多弁の方で、能く種々の場合に口を出し、或は演説なぞも処嫌はず頼まれ〻ばやるので、知らず識らず言ひ過ぎることなぞあつて、人から屡々揚足を取られたり、笑はれたりすることがある、併し如何に揚足を取られやうが笑はれやうが、余は一度口にして言ふ以上は、必ず心にもないことは言はぬといふ主義である、従つて自分自身では妄語したとは思つて居らない、或は世人には妄語と聞える場合がないでもなからうが、少くとも自分は確信のある所を口にした積りで居る、
書き下し
余は平素多弁の方で、よく種々の場合に口を出し、あるいは演説なども所嫌わず頼まるればやるので、知らず識らず言い過ぎることなどあって、人からしばしば揚げ足を取られたり、笑われたりすることがある。しかしいかに揚げ足を取られようが笑われようが、余は一度口にして言う以上は、必ず心にもないことは言わぬという主義である。したがって自分自身では妄語したとは思っておらない。あるいは世人には妄語と聞こえる場合がないでもなかろうが、少なくとも自分は確信のある所を口にしたつもりでいる。
現代語訳
私はふだんから口数の多いほうで、いろいろな場面でよく口を出し、演説なども場所を選ばず頼まれればやるので、知らず知らずのうちに言い過ぎることなどもあって、人からしばしば揚げ足を取られたり、笑われたりすることがある。しかし、どれほど揚げ足を取られようが笑われようが、私はひとたび口にして言う以上は、決して心にもないことは言わないという主義である。だから自分自身では、でたらめを言ったとは思っていない。あるいは世間の人にはでたらめと聞こえる場合もないではないだろうが、少なくとも自分では、確信のあるところを口にしたつもりでいる。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・口は禍福の門なり口舌は禍の門であるだろうが、ただ禍の門であるということを恐れて、一切口を閉じたらその結果はいかがであろう。有要な場合に有要な言を吐くのは、出来るだけ意思の通ずるように言語を用いなければ、せっかくのことも有耶無耶のうちに葬られねばならぬことになる。それでは禍の方は防げるとしても、福の方はいかにして招くべきか。口舌の利用によって福も来るものではないか。もとより多弁は感心せぬが、無言もまた珍重すべきものではない。
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『論語と算盤』常識と習慣・口は禍福の門なり口舌は実に禍の起こる門でもあるが、また福祉の生ずる門でもある。ゆえに福祉の来るためには多弁あえて悪いとは言われぬが、禍の起こる所に向かっては言語を慎まねばならぬ。片言隻語といえども、決してこれをみだりにせず、禍福の分かるる所を考えてするということは、何人にとっても忘れてはならぬ心得であろうと思う。
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『論語と算盤』常識と習慣・口は禍福の門なり啞はこの世の中においていかなる用を弁じ得るか。余のごときは多弁のために禍もあるが、これによってまた福も来るのである。例えば、沈黙していては解らぬのであるけれども、ちょっと口を開いたために、人の困難な場合を救うてやることが出来たとか、あるいはよく喋ることが好きだから、何かのことにあの人を頼んで口を利いてもらったらよろしかろうと頼まれて、物事の調停をしてやったとか、あるいは口舌のあるために種々の仕事を見出すことが出来たとかいうように、すべて口舌が無かったら、それらの福は来るものでないと思う。してみれば、これらはまことに口舌より得る利益である。口は禍の門であるとともに福の門でもある。芭蕉の句に「ものいえば唇寒し秋の風」というのがある。これも要するに口は禍の門ということを文学化したものであろうけれども、こういう具合に禍の方ばかり見ては消極的になり過ぎる。極端に解釈すれば、ものを言うことが出来ないことになる。それではあまり範囲が狭過ぎるのである。
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『論語と算盤』常識と習慣・悪んで其の美を知れ自己の懐抱する主義がこうであるから、面会を求めて来る人には必ず会うて談話する。知人としからざるとの別なく、自分に差し支えなければ、必ず面会して先方の注意と希望を聞くことにしている。それであるから来訪者の希望が道理にかなっていることと思う場合ならば、相手の何人たるを問わず、その人の希望をかなえてやる。
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『論語と算盤』常識と習慣・悪んで其の美を知れ余がこの行為を他人から見たならば、何もそういう手紙を一々見たり、そういう人にことごとく会う必要はないと言うであろう。けれどももしそれらに対して面会を謝絶したり、手紙を見なかったりすることは、余が平素の主義に反する行為となる。それゆえ自ら雑務が多くなって、寸暇もなくなるゆえ困るとは知りながらも、主義のために余計な手数をもかける訳である。
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『論語と算盤』常識と習慣・悪んで其の美を知れ余はややもすれば世人より誤解されて、渋沢は清濁併せ呑むの主義であるとか、正邪善悪の差別を構わぬ男であるとか評される。先頃もある者が来て真っ向から余に詰問し、「足下は日頃論語をもって処世上の根本主義とせられ、また論語主義をもって自ら行われつつあるにもかかわらず、足下が世話される人の中には、全く足下の主義と反し、むしろ非論語主義の者もあり、社会より指弾さるる人物をも、足下は平然としてこれを近づけ、虚然として世評に関せざるがごとき態度を取らるるが、かくのごときは足下が高潔なる人格を傷つくるものではあるまいか、その真意が聞きたい」とのことであった。
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