論語と算盤 / 常識と習慣・常識とは如何なるものか
動き易い情を控制するものは鞏固なる意志より外はない、然り矣、意は精神作用中の本源である、鞏固なる意志があれば人生に於ては最も強味ある者となる、けれども徒らに意志ばかり強くて、之に他の情も智も伴はなければ、唯頑固者とか強情者とかいふ人物となり、不理窟に自信ばかり強くて、自己の主張が間違つて居ても、それを矯正しようとはせず、何所迄も我を押通すやうになる、勿論斯ういふ風の人も、或る意味から見れば尊ぶべき点がないでも無いが、それでは一般社会に処すべき資格に於て欠けて居る、謂は〻゙精神的の片輪で完全の人とは言はれない、意志の鞏固なるが上に聡明なる智恵を加味し、之を調節するに情愛を以てし、此の三者を適度に調合したものを大きく発達せしめて行つたのが、始めて完全なる常識となるのである、現代の人は能く口癖のやうに意志を強く持てといふが、意志ばかり強くても矢張困り者で、俗にいふ『猪武者』のやうな者になつては、如何に意志が強くても社会に余り有用の人物とは云へないのである。
書き下し
動きやすい情を控制するものは鞏固なる意志よりほかはない。しかり、意は精神作用中の本源である。鞏固なる意志があれば人生においては最も強みある者となる。けれどもいたずらに意志ばかり強くて、これに他の情も智も伴わなければ、ただ頑固者とか強情者とかいう人物となり、不理屈に自信ばかり強くて、自己の主張が間違っていても、それを矯正しようとはせず、どこまでも我を押し通すようになる。もちろんこういう風の人も、ある意味から見れば尊ぶべき点がないでもないが、それでは一般社会に処すべき資格において欠けている。いわば精神的の片輪で完全の人とは言われない。意志の鞏固なる上に聡明なる智恵を加味し、これを調節するに情愛をもってし、この三者を適度に調合したものを大きく発達せしめて行ったのが、始めて完全なる常識となるのである。現代の人はよく口癖のように意志を強く持てと言うが、意志ばかり強くてもやはり困り者で、俗にいう「猪武者」のような者になっては、いかに意志が強くても社会にあまり有用の人物とは言えないのである。
現代語訳
動きやすい情を抑えるものは、強固な意志よりほかにない。そのとおり、意は精神の働きのなかの本源である。強固な意志があれば、人生において最も強みのある者となる。けれども、むやみに意志ばかり強くて、そこに情も智もともなわなければ、ただの頑固者とか強情者とかいう人物になり、筋の通らないことに自信ばかり強く、自分の主張が間違っていても、それを正そうとはせず、どこまでも我を押し通すようになる。もちろん、こういう人にも、ある意味から見れば尊ぶべき点がないわけではないが、それでは一般社会で世を渡っていく資格に欠けている。いわば精神的に偏りのある人であって、完全な人とは言えない。強固な意志のうえに聡明な知恵を加え、それを情愛によって調節し、この三つを適度に調合したものを大きく発達させていってこそ、はじめて完全な常識となるのである。現代の人は、よく口癖のように意志を強く持てと言うが、意志ばかり強くてもやはり困りもので、俗に言う「猪武者」のような者になっては、どれほど意志が強くても、社会にとってあまり有用な人物とは言えないのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものかすなわち事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。これを学理的に解釈すれば「智、情、意」の三者がおのおの権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。さらに換言すれば、普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力がすなわちそれである。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものか人間の心を解剖して「智、情、意」の三つに分解したものは心理学者の唱道に基づく所であるが、何人といえどもこの三者の調和が不必要と認めるものはなかろうと思う。智恵と情愛と意志との三者があってこそ、人間社会の活動も出来、物に接触して効能をも現してゆけるものである。ゆえに常識の根本原則たる「智、情、意」の三者について少しく述べて見ようと思う。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものか情は一の緩和剤で、何事もこの一味の調合によって平均を保ち、人生のことにすべて円満なる解決を告げてゆくものである。仮に人間界から情の分子を除却したらどういう事になろうか。何もかも極端から極端に走り、ついにはいかんともすべからざる結果に逢著しなければなるまい。このゆえに人間にとっては「情」は欠くべからざる一機能である。しかしながら情の欠点は最も感動の早いものであるから、悪くすると動きやすいようになる。人の喜怒哀楽愛悪欲の七情によりて生ずる事柄は変化の強いもので、心の他の部面においてこれを制裁するものが無ければ、感情に走り過ぐるの弊が起こる。ここにおいてか始めて「意志」なるものの必要が生じて来るのである。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものか智の尊ぶべきものなることは実に前述のごとくであるが、しかし智ばかりで活動が出来るかというに、決してそういうものでない。そこに「情」というものを巧みに案排しなければ、智の能力をして充分に発揮せしむることが出来ないのである。例を挙げて説明すれば、いたずらに智ばかり勝って情愛の薄い人間はどんなものであろうか。自己の利益を図らんとするためには、他人を突き飛ばしても蹴倒しても一向頓著しない。由来智恵が十分に働く人は、何事に対しても一見してその原因結果の理を明らかに知ることが出来、事物の見透しが付くのであるが、かかる人物にしてもし情愛が無かったらたまったものでない。その見透した終局までの事理を害用し、自己本位をもってどこまでもやり通す。この場合他人の迷惑や難儀なぞがいかに来ようとも、何とも思わぬほど極端になってしまう。そこの不権衡を調和してゆくものがすなわち情である。
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『論語と算盤』常識と習慣・正に就き邪に遠ざかるの道かく論じ来れば、意志の鍛錬には常識が必要であるという事になって来るが、常識の養成については別に詳説してあるからここには省くとしても、やはりその根本は孝悌忠信の思想によらなければならぬ。忠と孝とこの二者より組み立てたる意志をもって、何事も順序よく進ませるようにし、また何事によらず、沈思黙考して決断するならば、意志の鍛錬において間然する所はないと信ずる。しかしながら事件は沈思黙考の余地ある場合にのみ起こるものでない。唐突に湧き起こったり、さなくとも人と接した場合なぞに、その場で何とか応答の辞を吐かねばならぬことがいくらもある。そういう機会にはあまり熟慮している時間がないから、即座に機宜を得た答えをしなければならぬが、平素鍛錬を怠った者には、その場に適当な決定をすることがちょっと出来がたい。従って勢い本心に反したような結末を見なければならぬ。ゆえに何事も平素においてよく鍛錬を重ねるならば、ついにはそれがその人の習慣性となりて、何事に対しても動ずる色なきを得るに至るであろう。
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『論語と算盤』常識と習慣・偉き人と完き人史乗などに見ゆる所の英雄豪傑には、とかく智情意の三者の権衡を失した者が多いようである。すなわち意志が非常に強かったけれども智識が足りなかったとか、意志と智慧とは揃っていたが、情愛に乏しかったとかいうがごとき性格は、彼らの間にいくらもあった。かくのごときものはいかに英雄でも豪傑でも常識的の人とは言われない。なるほど、一面から見れば非常に偉い点がある、超凡的な所がある、普通一般人の企及すべからざる点があるには相違ないが。
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