宋名臣言行録 / 前集巻十・穆修
穆修字伯長汶陽人後居蔡州師事圖南少豪放性褊少合多遊京洛間人嘗書其句於禁中壁間真宗見之深加賞嘆問侍臣曰此為誰詩或以穆修對上曰有文如此公卿何以不薦丁晉公在側曰此人行不逮文由是上不復問葢伯長與晉公有布衣舊晉公赴䕫漕伯長猶未仕相遇漢上晉公意欲伯長先致禮伯長竟不一揖而去晉公銜之由是短於上前後晉公貶珠崖徙道州公有詩云却謗有虞刑政失四凶何事不量移可見其不相善也公登進士第後為潁州文學㕘軍故當時呼之曰穆叅軍老益貧家有唐本韓栁集乃丐於所親厚者得金用工鏤板印數百帙携入京師相國寺設肆鬻之坐其旁有儒生數軰至其肆輙取閱公奪取怒視謂曰先軰能讀一篇不失一句當以一部相送遂終年不售時學者方從事聲律未知古文伯長始為之倡其後尹洙師魯始從之學古文又傳其春秋學
新字:穆修字伯長汶陽人後居蔡州師事図南少豪放性褊少合多遊京洛間人嘗書其句於禁中壁間真宗見之深加賞嘆問侍臣曰此為誰詩或以穆修対上曰有文如此公卿何以不薦丁晉公在側曰此人行不逮文由是上不復問葢伯長与晉公有布衣旧晉公赴䕫漕伯長猶未仕相遇漢上晉公意欲伯長先致礼伯長竟不一揖而去晉公銜之由是短於上前後晉公貶珠崖徙道州公有詩云却謗有虞刑政失四凶何事不量移可見其不相善也公登進士第後為潁州文学㕘軍故当時呼之曰穆叅軍老益貧家有唐本韓栁集乃丐於所親厚者得金用工鏤板印数百帙携入京師相国寺設肆鬻之坐其旁有儒生数軰至其肆輙取閱公奪取怒視謂曰先軰能読一篇不失一句当以一部相送遂終年不售時学者方従事声律未知古文伯長始為之倡其後尹洙師魯始従之学古文又伝其春秋学
書き下し
穆修、字は伯長。汶陽の人。後、蔡州に居る。圖南に師事す。少くして豪放、性は褊にして合すること少なし。多く京・洛の間に遊ぶ。人、嘗て其の句を禁中の壁間に書す。真宗之を見て深く賞嘆を加う。侍臣に問いて曰く、此れ誰の詩と爲すやと。或るひと穆修を以て對う。上曰く、文有ること此くの如し。公卿、何を以て薦めざるやと。丁晉公、側に在りて曰く、此の人の行は文に逮ばずと。是に由りて上、復た問わず。葢し伯長と晉公と布衣の舊有り。晉公、䕫漕に赴く。伯長猶お未だ仕えず。漢上に相い遇う。晉公の意、伯長の先ず禮を致さんことを欲す。伯長、竟に一揖せずして去る。晉公之を銜む。是に由りて上前に短ず。後、晉公、珠崖に貶せられ道州に徙る。公、詩有りて云う、却って謗る有虞の刑政の失を。四凶、何事ぞ量移せざると。其の相い善からざるを見る可きなり。公、進士第に登る。後、潁州文學參軍と爲る。故に當時、之を呼びて穆參軍と曰う。老いて益々貧し。家に唐本の韓・栁の集有り。乃ち親厚する所の者に丐いて金を得、工を用いて板に鏤り、數百帙を印し、携えて京師に入る。相國寺に肆を設けて之を鬻ぐ。其の旁に坐す。儒生數輩有り。其の肆に至りて輙ち取りて閱す。公、奪い取りて怒視して謂いて曰く、先輩、能く一篇を讀みて一句も失わずんば、當に一部を以て相い送るべしと。遂に終年、售れず。時に學者、方に聲律に從事して、未だ古文を知らず。伯長、始めて之が倡を爲す。其の後、尹洙師魯、始めて之に從いて古文を學ぶ。又た其の春秋學を傳う。
現代語訳
穆修、字は伯長。汶陽の人。後に蔡州に住んだ。陳摶に師事した。若いころから豪放で、性質は狭くて人と合うことが少なかった。たいてい都と洛陽のあいだを歩き回った。ある人がかつてその詩句を宮中の壁に書いた。真宗はそれを見て深く感嘆した。側近に尋ねた。「これは誰の詩か」。ある者が穆修だと答えた。帝は言った。「これほどの文がある。公卿はどうして推薦しないのか」。丁謂が傍らにいて言った。「この者の行いは文に及びません」。これによって帝は二度と尋ねなかった。じつは穆修と丁謂には布衣のころからの旧交があった。丁謂が夔州の転運使に赴任した。穆修はまだ官に就いていなかった。漢水のほとりで出会った。丁謂の心づもりでは、穆修が先に礼をしてほしかった。穆修はけっきょく一礼もせずに去った。丁謂はそれを恨んだ。これによって帝の前でそしった。後に丁謂が珠崖に流されて道州に移された。公は詩を作って言った。「かえって有虞の刑政の失をそしろう。四凶は、どうして近くへ移されないのか」。二人が仲良くなかったことが分かる。公は進士に及第した。後に潁州文学参軍となった。だから当時、この人を「穆参軍」と呼んだ。年老いてますます貧しかった。家に唐本の韓愈・柳宗元の文集があった。そこで親しい者に頼んで金を得、職人を使って版に彫り、数百帙を印刷し、携えて都に入った。相国寺に店を出して売った。その傍らに坐っていた。儒生が数人あった。その店に来て手に取って読んだ。公は奪い取って睨みつけて言った。「先輩がた、一篇を読んで一句も間違えずにいられたら、一部を差し上げよう」。そこで一年たっても売れなかった。当時、学ぶ者はちょうど声律に励んでいて、まだ古文を知らなかった。穆修がはじめてその唱えを起こした。その後、尹洙がはじめてこの人に従って古文を学んだ。さらにその春秋学を伝えた。
解説
この章句が説くこと
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人物志・體別凌楷の人は、意を秉ること勁特にして、其の情の固護なるを戒めず、辨を以て偽と為し、其の專を彊む。是の故に、以て正を持すべきも、與に眾を附くること難し。
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『宋名臣言行録』前集巻九・尹洙本朝の古文、栁開仲塗・穆修伯長、首として之が唱を爲す。師魯兄弟、其の後を繼ぐ。文忠公、蚤に偶儷の文に工なり。河南に宦するに及び、始めて師魯を得て、乃ち韓退之の文を出だして之を學ぶ。葢し公と師魯と、文に於て同じからずと雖も、公、古文を爲すは則ち師魯の後に居るなり。五代史の如きは、公嘗て師魯と分撰を約す。其の後、師魯死して子無し。今、歐陽公の五代史、之を學官に頒ちて世に盛行す。内に果たして師魯の文有るか。抑々歐陽公自ら之を爲れるか。歐公、師魯の墓を誌して其の文を論じて曰く、簡にして法有りと。且つ人に謂いて曰く、孔子の六經の中に在りて、惟だ春秋のみ當たる可しと。則ち歐公の師魯に於けるや薄からず。崇寧の間、神宗正史を改修す。歐公の傳に乃ち云う、同時に尹洙なる者有り。亦た古文を爲す。然れども洙の才は以て修を望むに足らずと。葢し史官、皆な晚學の小生にして、前軰の文章の淵源、自ら次第有るを知らざるなり。