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論語と算盤 / 常識と習慣・常識とは如何なるものか

さて『智』は人に取つて如何なる働きをするものであらうか、人として智恵が十分に進んで居らねば、物を識別する能力に不足を来すのであるが、此の物の善悪是非の識別が出来ぬ人や、利害得失の鑑定に欠けた人であるとすれば、其人に如何ほど学識があつても、善いことを善いと認めたり、利あることを利ありと見分けをして、それに就くわけに行かぬから、さういふ人の学問は宝の持ち腐れに終つてしまふ、此所を思へば智恵が如何に人生に大切であるか〻゙知らる〻であらう、所が、彼の宋の大儒程朱の如きは痛く此の智を嫌つた、それは智の弊として、動もすれば術数に陥り、欺瞞詐偽の生ずる場合がある、また功利を主とすれば智恵の働きが多くなり、仁義道徳の方面には遠くなるとの理由で之を疎外した、それが為め折角多方面に活用せしむべき学問が死物になり、唯己れ一身をさへ修めて悪事が無ければ宜いといふことになつて仕舞つた、

書き下し

さて「智」は人にとっていかなる働きをするものであろうか。人として智恵が十分に進んでおらねば、物を識別する能力に不足を来すのであるが、この物の善悪是非の識別が出来ぬ人や、利害得失の鑑定に欠けた人であるとすれば、その人にいかほど学識があっても、善いことを善いと認めたり、利あることを利ありと見分けをして、それに就くわけに行かぬから、そういう人の学問は宝の持ち腐れに終わってしまう。ここを思えば智恵がいかに人生に大切であるかが知らるるであろう。ところが、かの宋の大儒程朱のごときは痛くこの智を嫌った。それは智の弊として、ややもすれば術数に陥り、欺瞞詐偽の生ずる場合がある。また功利を主とすれば智恵の働きが多くなり、仁義道徳の方面には遠くなるとの理由でこれを疎外した。それがため折角多方面に活用せしむべき学問が死物になり、ただ己れ一身をさえ修めて悪事が無ければよいということになってしまった。

現代語訳

さて「智」は、人にとってどのような働きをするものだろうか。人として知恵が十分に発達していなければ、物事を見分ける能力が不足する。物事の善悪や是非を見分けられない人、利害得失を見定める力に欠けた人であれば、その人にどれほど学識があっても、善いことを善いと認めたり、利益のあることを利益があると見分けたりして、それに就くことができないから、そういう人の学問は宝の持ち腐れに終わってしまう。この点を思えば、知恵が人生にとってどれほど大切かがわかるだろう。ところが、あの宋の大儒学者である程顥・程頤や朱熹などは、ひどくこの智を嫌った。それは、智の弊害として、ともすれば策略に陥り、欺きや偽りが生じる場合があるからである。また、功利を主とすれば知恵の働きが多くなり、仁義道徳の方面からは遠くなる、という理由で、智を遠ざけた。そのために、せっかく多方面に活用させるべき学問が死んだものになり、ただ自分一身さえ修めて悪事がなければよい、ということになってしまった。

解説

智・情・意の最初に、渋沢は智を取り上げる。智がなければ善悪も損得も見分けられず、どれほど学識があっても宝の持ち腐れになる。ここまでは誰もが同意するだろう。渋沢の議論が鋭くなるのは、その後である。宋の程顥・程頤と朱熹、つまり朱子学の祖たちが智を嫌ったことを名指しで批判する。彼らの言い分も公平に紹介している。智は術数や詐欺に流れやすく、功利に傾けば仁義から遠ざかる、と。しかし、その結果として学問は死物になり、ただ一身を修めて悪事さえなければよいという消極的な道徳が残った。江戸幕府の官学であった朱子学に対して、渋沢が一貫して抱いていた不満がここに表れている。道徳を守るために知恵を縛れば、道徳は人を動かす力を失う。論語と算盤を結ぼうとする渋沢の立場は、この朱子学批判の上に立っているのである。

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