論語と算盤 / 常識と習慣・常識とは如何なるものか
是は大なる誤思謬見で、仮りに一身だけ悪事が無いから宜いと手を束ねて居る人のみとなつたら如何なものであらうか、左様いふ人は世に処し社会に立つて何等の貢献する所もない、それでは人生の目的が那辺に存するかを知るに苦しまねばならぬ、とは云へ、素より悪行があつては勿論不可ぬけれども、人は総て悪事に陥らずに、多くの世務を果すやうで無ければ、真の人間とは謂はれぬのである、若し智の働きに強い検束を加へたら、その結果は如何であらう、悪事を働かぬことにはなりもしようが、人心が次第に消極的に傾き、真に善事の為にも活動する者が少くなつて仕舞はねば宜いがと、甚だ心配に堪へぬ訳である、朱子は謂ゆる『虚霊不昧』とか『寂然不動』とかいふやうな説を主張して、仁義忠孝を説き、智は詐術に奔るものであるというて絶対に之を嫌つたから、それが為に孔孟の教は偏狭に陥り、儒教の大精神を世人に誤解されるやうになつた点が少くないと思ふ、智は実に人心に取つて欠くべからざる大切の一要件である、故に余は智は決して軽視すべからざるものとして居る。
書き下し
これは大なる誤思謬見で、仮に一身だけ悪事が無いからよいと手を束ねている人のみとなったらいかがなものであろうか。そういう人は世に処し社会に立って何等の貢献する所もない。それでは人生の目的が那辺に存するかを知るに苦しまねばならぬ。とは言え、もとより悪行があってはもちろんいけぬけれども、人はすべて悪事に陥らずに、多くの世務を果たすようでなければ、真の人間とは言われぬのである。もし智の働きに強い検束を加えたら、その結果はいかがであろう。悪事を働かぬことにはなりもしようが、人心が次第に消極的に傾き、真に善事のためにも活動する者が少なくなってしまわねばよいがと、甚だ心配に堪えぬ訳である。朱子はいわゆる「虚霊不昧」とか「寂然不動」とかいうような説を主張して、仁義忠孝を説き、智は詐術に奔るものであると言うて絶対にこれを嫌ったから、それがために孔孟の教えは偏狭に陥り、儒教の大精神を世人に誤解されるようになった点が少なくないと思う。智は実に人心にとって欠くべからざる大切の一要件である。ゆえに余は智は決して軽視すべからざるものとしている。
現代語訳
これは大きな誤りであり、まちがった見解である。かりに、自分一身だけ悪事がないからよいと手をこまねいている人ばかりになったら、どうであろうか。そういう人は、世を渡り社会に立っても、何の貢献もしない。それでは、人生の目的がどこにあるのかわからなくなってしまう。とはいえ、もちろん悪行があってはならないが、人はみな、悪事に陥ることなく、しかも多くの世の務めを果たすのでなければ、本当の人間とは言えないのである。もし智の働きに強い束縛を加えたら、その結果はどうなるだろうか。悪事を働かないようにはなるかもしれないが、人の心がしだいに消極的に傾き、本当に善いことのために活動する者まで少なくなってしまわなければよいがと、はなはだ心配でならない。朱子はいわゆる「虚霊不昧」(心は虚にして霊妙、くもりがない)とか「寂然不動」(静かで動かない)とかいう説を主張して仁義忠孝を説き、智は詐術に走るものだと言って徹底して嫌ったから、そのために孔子・孟子の教えは偏狭に陥り、儒教の大精神が世の人に誤解されるようになった点が少なくないと思う。智は実に人の心にとって欠くことのできない大切な一要件である。だから私は、智は決して軽視してはならないものと考えている。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものかさて「智」は人にとっていかなる働きをするものであろうか。人として智恵が十分に進んでおらねば、物を識別する能力に不足を来すのであるが、この物の善悪是非の識別が出来ぬ人や、利害得失の鑑定に欠けた人であるとすれば、その人にいかほど学識があっても、善いことを善いと認めたり、利あることを利ありと見分けをして、それに就くわけに行かぬから、そういう人の学問は宝の持ち腐れに終わってしまう。ここを思えば智恵がいかに人生に大切であるかが知らるるであろう。ところが、かの宋の大儒程朱のごときは痛くこの智を嫌った。それは智の弊として、ややもすれば術数に陥り、欺瞞詐偽の生ずる場合がある。また功利を主とすれば智恵の働きが多くなり、仁義道徳の方面には遠くなるとの理由でこれを疎外した。それがため折角多方面に活用せしむべき学問が死物になり、ただ己れ一身をさえ修めて悪事が無ければよいということになってしまった。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものか智の尊ぶべきものなることは実に前述のごとくであるが、しかし智ばかりで活動が出来るかというに、決してそういうものでない。そこに「情」というものを巧みに案排しなければ、智の能力をして充分に発揮せしむることが出来ないのである。例を挙げて説明すれば、いたずらに智ばかり勝って情愛の薄い人間はどんなものであろうか。自己の利益を図らんとするためには、他人を突き飛ばしても蹴倒しても一向頓著しない。由来智恵が十分に働く人は、何事に対しても一見してその原因結果の理を明らかに知ることが出来、事物の見透しが付くのであるが、かかる人物にしてもし情愛が無かったらたまったものでない。その見透した終局までの事理を害用し、自己本位をもってどこまでもやり通す。この場合他人の迷惑や難儀なぞがいかに来ようとも、何とも思わぬほど極端になってしまう。そこの不権衡を調和してゆくものがすなわち情である。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべしこの学派の師宗朱子その人が、ただ大学者というまでにて、実践躬行、口に道徳を説き、身に仁義を行う底の人物でなかったから、林家の学風も、儒者は聖人の学説を講述する者、俗人はこれを実地に行うべきものとし、説く者と行う者との区別を生じ、これが結果として、孔孟のいわゆる民すなわち被治者階級に属する者は、ただ命これ奉じて、一村一町の公役行事を怠らざれば足るという卑屈根性を馴致し、道徳仁義は治者のなすべきこと、百姓は政府より預りたる田畑を耕し、町人は算盤の目をせせってさえおれば能事了るという考えが、習い性をなして国家を愛するとか、道徳を重んずるとかいう観念は全く欠乏したのである。鮑魚の市に入るものは自らその臭を知らずといえば、かかる数百年の悪風に養われ、いわゆる糞厮の臭きを忘れたるものを薫化し、陶冶し、あっぱれ有道の君子的人物となすは、もとより容易のことでは無いのに、欧米の新文明の輸入は、この道義的観念の欠乏に乗じ、翕然として功利の科学に向かわしめ、いよいよその悪風を助長することとなった。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものかすなわち事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。これを学理的に解釈すれば「智、情、意」の三者がおのおの権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。さらに換言すれば、普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力がすなわちそれである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ後世儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に「計を用い数を用うるは、たとい功業を立て得るも、ただこれ人欲の私にして、聖賢の作処とは天地懸隔す」と説き、貨殖功利のことを貶している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」と言える言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人じみた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは仁義道徳を外にしても構わぬというに帰着するのである。かくのごときは決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派の儒者によって捏造された妄説にほかならぬ。しかるに我が国では元和寛永の頃よりこの学説が盛んに行われ、学問といえばこの学説よりほかにはないというまでに至った。そしてこの学説は今日の社会にいかなる余弊をもたらしているのであろうか。
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『論語と算盤』人格と修養・誤解されたる修養説を駁す修養は人を卑屈にすると言うは、礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思う。およそ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らるるので、決して愚昧卑屈でその域に達するものではない。大学の致知格物も、王陽明の致良知も、やはり修養である。修養は土人形を造るようなものではない。かえって己の良知を増し、己の霊光を発揚するのである。修養を積めば積むほど、その人は事に当たり物に接して善悪が明瞭になって来るから、取捨去就に際して惑わず、しかもその裁決が流るるごとくなって来るのである。ゆえに修養が人を卑屈愚昧にすると言うは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すにおいて必要だということになるのである。これをもって修養は知識を軽んぜよというのではない。ただ今日の教育は、あまりに智を得るのみに趨って、精神を練磨することに乏しいから、それを補うための修養である。修養と修学を相容れぬごとくに思うのは大なる誤りである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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