論語と算盤 / 常識と習慣・常識とは如何なるものか
人間の心を解剖して『智、情、意』の三つに分解したものは心理学者の唱道に基く所であるが、何人と雖も此の三者の調和が不必要と認めるものは無からうと思ふ、智恵と情愛と意志との三者があつてこそ、人間社会の活動も出来、物に接触して効能をも現はしてゆけるものである、故に常識の根本原則たる『智、情、意』の三者に就て少しく述べて見やうと思ふ。
書き下し
人間の心を解剖して「智、情、意」の三つに分解したものは心理学者の唱道に基づく所であるが、何人といえどもこの三者の調和が不必要と認めるものはなかろうと思う。智恵と情愛と意志との三者があってこそ、人間社会の活動も出来、物に接触して効能をも現してゆけるものである。ゆえに常識の根本原則たる「智、情、意」の三者について少しく述べて見ようと思う。
現代語訳
人間の心を分析して「智・情・意」の三つに分けたのは、心理学者の唱えるところにもとづくものだが、誰であれ、この三つの調和が不必要だと考える者はいないだろうと思う。知恵と情愛と意志の三つがあってこそ、人間社会の活動もでき、物事に接して効き目をあらわしていけるのである。そこで、常識の根本原則である「智・情・意」の三つについて、少し述べてみようと思う。
解説
常識の定義を、渋沢は心理学の枠組みから組み立てる。人の心を智・情・意に分けるのは、明治の日本に西洋の心理学とともに入ってきた考え方で、知情意の三分法として教育界にも広まっていた。渋沢はこの新しい学説を借りながら、中身は儒学の伝統に引き寄せて語っていく。注目したいのは、三つのうちどれが大事かではなく、三者の「調和」を問題にしている点である。智も情も意も、それぞれ単独では欠陥を生む。三つがそろってはじめて、社会で活動し、物事に効き目を現すことができる。この後の段では、智・情・意を一つずつ取り上げ、それぞれの長所と、それだけが突出したときの弊害を順に論じていく。釣り合いの取れた人という言い方はよくされるが、何と何の釣り合いなのかを具体的に示した点に、渋沢の議論の強みがある。
関連する章句
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものかすなわち事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。これを学理的に解釈すれば「智、情、意」の三者がおのおの権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。さらに換言すれば、普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力がすなわちそれである。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものか動きやすい情を控制するものは鞏固なる意志よりほかはない。しかり、意は精神作用中の本源である。鞏固なる意志があれば人生においては最も強みある者となる。けれどもいたずらに意志ばかり強くて、これに他の情も智も伴わなければ、ただ頑固者とか強情者とかいう人物となり、不理屈に自信ばかり強くて、自己の主張が間違っていても、それを矯正しようとはせず、どこまでも我を押し通すようになる。もちろんこういう風の人も、ある意味から見れば尊ぶべき点がないでもないが、それでは一般社会に処すべき資格において欠けている。いわば精神的の片輪で完全の人とは言われない。意志の鞏固なる上に聡明なる智恵を加味し、これを調節するに情愛をもってし、この三者を適度に調合したものを大きく発達せしめて行ったのが、始めて完全なる常識となるのである。現代の人はよく口癖のように意志を強く持てと言うが、意志ばかり強くてもやはり困り者で、俗にいう「猪武者」のような者になっては、いかに意志が強くても社会にあまり有用の人物とは言えないのである。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものか情は一の緩和剤で、何事もこの一味の調合によって平均を保ち、人生のことにすべて円満なる解決を告げてゆくものである。仮に人間界から情の分子を除却したらどういう事になろうか。何もかも極端から極端に走り、ついにはいかんともすべからざる結果に逢著しなければなるまい。このゆえに人間にとっては「情」は欠くべからざる一機能である。しかしながら情の欠点は最も感動の早いものであるから、悪くすると動きやすいようになる。人の喜怒哀楽愛悪欲の七情によりて生ずる事柄は変化の強いもので、心の他の部面においてこれを制裁するものが無ければ、感情に走り過ぐるの弊が起こる。ここにおいてか始めて「意志」なるものの必要が生じて来るのである。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものか智の尊ぶべきものなることは実に前述のごとくであるが、しかし智ばかりで活動が出来るかというに、決してそういうものでない。そこに「情」というものを巧みに案排しなければ、智の能力をして充分に発揮せしむることが出来ないのである。例を挙げて説明すれば、いたずらに智ばかり勝って情愛の薄い人間はどんなものであろうか。自己の利益を図らんとするためには、他人を突き飛ばしても蹴倒しても一向頓著しない。由来智恵が十分に働く人は、何事に対しても一見してその原因結果の理を明らかに知ることが出来、事物の見透しが付くのであるが、かかる人物にしてもし情愛が無かったらたまったものでない。その見透した終局までの事理を害用し、自己本位をもってどこまでもやり通す。この場合他人の迷惑や難儀なぞがいかに来ようとも、何とも思わぬほど極端になってしまう。そこの不権衡を調和してゆくものがすなわち情である。
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『論語と算盤』常識と習慣・偉き人と完き人史乗などに見ゆる所の英雄豪傑には、とかく智情意の三者の権衡を失した者が多いようである。すなわち意志が非常に強かったけれども智識が足りなかったとか、意志と智慧とは揃っていたが、情愛に乏しかったとかいうがごとき性格は、彼らの間にいくらもあった。かくのごときものはいかに英雄でも豪傑でも常識的の人とは言われない。なるほど、一面から見れば非常に偉い点がある、超凡的な所がある、普通一般人の企及すべからざる点があるには相違ないが。
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『論語と算盤』常識と習慣・常識とは如何なるものかさて「智」は人にとっていかなる働きをするものであろうか。人として智恵が十分に進んでおらねば、物を識別する能力に不足を来すのであるが、この物の善悪是非の識別が出来ぬ人や、利害得失の鑑定に欠けた人であるとすれば、その人にいかほど学識があっても、善いことを善いと認めたり、利あることを利ありと見分けをして、それに就くわけに行かぬから、そういう人の学問は宝の持ち腐れに終わってしまう。ここを思えば智恵がいかに人生に大切であるかが知らるるであろう。ところが、かの宋の大儒程朱のごときは痛くこの智を嫌った。それは智の弊として、ややもすれば術数に陥り、欺瞞詐偽の生ずる場合がある。また功利を主とすれば智恵の働きが多くなり、仁義道徳の方面には遠くなるとの理由でこれを疎外した。それがため折角多方面に活用せしむべき学問が死物になり、ただ己れ一身をさえ修めて悪事が無ければよいということになってしまった。
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