論語と算盤 / 常識と習慣・常識とは如何なるものか
即ち事に当りて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見別け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適ふものがそれである、これを学理的に解釈すれば『智、情、意』の三者が各々権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だらうと考へる、更に換言すれば、普通一般の人情に通じ、能く通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力が即ちそれである
書き下し
すなわち事に当たりて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適うものがそれである。これを学理的に解釈すれば「智、情、意」の三者がおのおの権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だろうと考える。さらに換言すれば、普通一般の人情に通じ、よく通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力がすなわちそれである。
現代語訳
つまり、事に当たって奇をてらわず、頑固にも陥らず、是非善悪を見分け、利害得失を識別し、言葉も振る舞いもすべて中庸にかなっている——それが常識である。学問的に言い直せば、智・情・意の三つがそれぞれ釣り合いを保ち、等しく発達したものが完全な常識だと考える。さらに言い換えれば、世間一般の人情に通じ、普通の物事の道理をよく理解し、その場にふさわしい処置を取れる能力、それが常識なのである。
解説
常識という言葉を、渋沢は智・情・意の均衡として定義した。三つの説明が続く。智がなければ善悪も損得も見分けられず、学識は宝の持ち腐れになる。情がなければ、見通しの利く人間ほど他人を突き飛ばしてでも自分を通す——情はその不均衡を調える緩和剤だ。だが情は動きやすいので、これを制御する意志が要る。そして意志だけが強ければ「猪武者」になる。三つのどれが欠けても片輪だ、という構図である。渋沢はここで朱子学が智を嫌ったことを名指しで批判している。悪事さえしなければよいという消極に人を追いやり、学問を死物にした、と。常識とは、行動する人のための徳なのである。
この章句が説くこと
智情意の権衡常識中庸に適う猪武者