論語と算盤 / 立志と学問・君子の争ひたれ
明治四年私が恰度三十三歳で大蔵省に奉職し、総務局長を勤めて居た頃であつたが、大蔵省の出納制度に一大改革を施し改正法なるものを布いて、西洋式の簿記法を採用し伝票によつて金銭を出納することにした、所が、当時の出納局長であつた人が‥‥その姓名は且らく預り置くが‥‥この改正法に反対の意見を持つて居たのである、伝票制度の実施に当つて偶〻過失のあることを私が発見したので、当事者に対して之を責めてやると、元来私が発案実施した改正法に反対の意見を持つて居た出納局長といふ男が、傲岸な権幕で、一日私の執務して居た総務局長室に押しかけて来たのである。
書き下し
明治四年私がちょうど三十三歳で大蔵省に奉職し、総務局長を勤めていた頃であったが、大蔵省の出納制度に一大改革を施し改正法なるものを布いて、西洋式の簿記法を採用し伝票によって金銭を出納することにした。ところが、当時の出納局長であった人が‥‥その姓名はしばらく預り置くが‥‥この改正法に反対の意見を持っていたのである。伝票制度の実施に当たってたまたま過失のあることを私が発見したので、当事者に対してこれを責めてやると、元来私が発案実施した改正法に反対の意見を持っていた出納局長という男が、傲岸な権幕で、一日私の執務していた総務局長室に押しかけて来たのである。
現代語訳
明治四年、私がちょうど三十三歳で大蔵省に勤め、総務局長を務めていたころのことである。大蔵省の出納制度に一大改革を施し、改正法というものを定めて、西洋式の簿記法を採用し、伝票によって金銭を出し入れすることにした。ところが、当時の出納局長だった人が——その姓名はしばらく伏せておくが——この改正法に反対の意見を持っていたのである。伝票制度を実施するにあたって、たまたま過失があるのを私が見つけたので、担当者を責めてやると、もともと私が発案し実施した改正法に反対していたその出納局長という男が、傲慢な剣幕で、ある日私が執務していた総務局長室に押しかけてきたのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれその出納局長が怒気を含んだ権幕で私に詰め寄るのを見て、私は静かにその男の言わんとする所を聴きとるつもりでいると、その男は伝票制度の実施に当たって手違いをしたことなどについては、一言の謝罪もせず、しきりに私が改正法を布いて欧州式の簿記法を採用したことについてのみ、かれこれと不平を並べるのであった。いったい貴公がアメリカに心酔して、一から十まであの国の真似ばかりしたがり、改正法なんかというものを発案して簿記法によって出納を行わせようとするから、こんな過失が出来るのである。責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公の方にある。簿記法などを採用してくれさえせねば、我らもこんな過失をして、貴公などに責め付けられずに済んだのである、などと言語道断の暴言をほしいままにし、いささかたりとも自分等の非を省みる様な模様がないので、私もその非理屈にはやや驚いたがなお憤らず、出納の正確を期せんとするには、ぜひとも欧州式簿記法により、伝票を使用する必要あることを諄々と説いて聞かせたのである。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれいやしくも正しい道をあくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることは出来ぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようになってしまう。私は不肖ながら、正しい道に立ってなお悪と争わず、これに道を譲るほどに、いわゆる円満な腑甲斐のない人間でないつもりである。人間にはいかに円くとも、どこかに角が無ければならぬもので、古歌にもあるごとく、あまり円いとかえって転びやすいことになる。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれしかしその出納局長なる男は、ごうも私の言に耳を貸さぬのみか、二言三言言い争った末、満面はあたかも朱を注げるごとく紅くなって、直ちに拳固を振り上げ、私を目がけて打ってかかって来たのである。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれその男は小背の私に比べれば、身長の高い方であったが、怒気心頭に発し、足がふらついていた上にあまり強そうにも見えず、私はとにかく、青年時代において相当に武芸も仕込まれ身を鍛えていたことでもあるから、あながち膂力が無いという訳でもなかった。かりそめにも暴行に訴えて無礼をしたら、一ひねりにひねってやるのは何でもないことだとは思ったが、その男が椅子から立ち上がって、拳を握り腕をあげ、阿修羅のごとくになって猛り狂い私に詰めかけて来るのを見るや、私もすぐ椅子を離れてヒラリ身をかわし、全く神色自若として二三歩ばかり椅子を前に控えて後部に退き、その男が拳の持って行き所に困り、マゴマゴして隙を生じたのを見て取るや、すかさず泰然たる態度で、「ここはお役所でござるぞ、なんと心得召さる、車夫馬丁の真似をすることは許しませんぞ、お慎みなさい」と一喝したものだから、その出納局長もハッと悪いことをした、田夫野人の真似をしたということに気がついたものか、せっかく握り挙げた拳を引っ込めて、そのままスゴスゴと私のいた総務局長室を出て行ってしまったのである。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれ私が絶対にいわゆる円満な人間でない、相応に角もあり、円満ならざる甚だ不円満な所もある人物たることを証明するに足る……証明という語を用いるも少し異様だが……実際をちょっと談して見ようかと思う。私はもちろん、少壮の頃より腕力に訴えて他人と争うごときことをした覚えはない。しかし若い時分には今日と違って、容貌などにもよほど強情らしい所もあったもので、したがって他人の眼からは今日よりも容易に争いをしそうに見えたものかも知れぬ。もっとも私の争いは、若い時分から、すべて議論の上、権利の上での争いで腕力に流れた経験はいまだかつて一度もない。
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『論語と算盤』処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓人間の勤むべき尊い仕事は到る処にある、官だけが尊いのではないといろいろ論語などを援いて弁駁し説きつけたのである。そして私は論語を最も瑕瑾のないものと思うたから、論語の教訓を標準として、一生商売をやって見ようと決心した。それは明治六年の五月のことであった。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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