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論語と算盤 / 立志と学問・君子の争ひたれ

その出納局長が怒気を含んだ権幕で私に詰め寄るのを見て、私は静に其男の曰はんとする所を聴きとる積りで居ると、その男は伝票制度の実施に当つて手違ひをしたこと抔に就ては、一言の謝罪もせず、切りに私が改正法を布いて欧洲式の簿記法を採用したことに就てのみ、彼是と不平を並べるのであつた、一体貴公が亜米利加に心酔して、一から十まで彼国の真似ばかりしたがり、改正法なんかといふものを発案して簿記法によつて出納を行はせやうとするから、斯んな過失が出来るのである、責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公の方にある、簿記法などを採用して呉れさへせねば、我儕も斯んな過失をして、貴公などに責付けられずに済んだのである、などと言語道断の暴言を恣にし、些かたりとも自分等の非を省みる様な模様がないので、私も其の非理屈には稍驚いたが尚ほ憤らず、出納の正確を期せんとするには、是非とも欧洲式簿記法により、伝票を使用する必要あることを諄々と説いて聞かせたのである、

書き下し

その出納局長が怒気を含んだ権幕で私に詰め寄るのを見て、私は静かにその男の言わんとする所を聴きとるつもりでいると、その男は伝票制度の実施に当たって手違いをしたことなどについては、一言の謝罪もせず、しきりに私が改正法を布いて欧州式の簿記法を採用したことについてのみ、かれこれと不平を並べるのであった。いったい貴公がアメリカに心酔して、一から十まであの国の真似ばかりしたがり、改正法なんかというものを発案して簿記法によって出納を行わせようとするから、こんな過失が出来るのである。責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公の方にある。簿記法などを採用してくれさえせねば、我らもこんな過失をして、貴公などに責め付けられずに済んだのである、などと言語道断の暴言をほしいままにし、いささかたりとも自分等の非を省みる様な模様がないので、私もその非理屈にはやや驚いたがなお憤らず、出納の正確を期せんとするには、ぜひとも欧州式簿記法により、伝票を使用する必要あることを諄々と説いて聞かせたのである。

現代語訳

その出納局長が怒りを含んだ剣幕で私に詰め寄るのを見て、私は静かにその男の言おうとするところを聴き取るつもりでいた。ところがその男は、伝票制度の実施で手違いをしたことなどについては一言の謝罪もせず、しきりに、私が改正法を定めてヨーロッパ式の簿記法を採用したことばかりについて、あれこれと不平を並べるのであった。「そもそも貴公がアメリカに心酔して、一から十まであの国の真似ばかりしたがり、改正法などというものを発案して、簿記法で出納をさせようとするから、こんな過失が起きるのだ。責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公のほうにある。簿記法などを採用しさえしなければ、我々もこんな過失をせず、貴公などに責め立てられずに済んだのだ」などと、言語道断の暴言をほしいままにし、少しも自分たちの非を省みる様子がない。私もその無理な理屈にはいささか驚いたが、それでも怒らず、出納の正確を期するには、ぜひともヨーロッパ式の簿記法により伝票を使う必要があることを、懇切に説いて聞かせたのである。

解説

相手の言い分が、よく知られた型をしている。自分たちの手違いには触れず、責任を新しい制度とその発案者に振り替える。アメリカかぶれが一から十まで真似をするからだ、という非難も、改革への反発としてはおなじみのものだ。欧州式と言いながら亜米利加に心酔と罵るちぐはぐさにも、相手の感情の乱れが表れている。ここで渋沢が見せるのは、君子の争いの第一段階である。まず静かに聴く。理屈の通らない暴言にも「尚ほ憤らず」、出納の正確を期すには伝票が要ることを諄々と説く。怒りに怒りで返さず、議論の筋を離れない。角があるとは、声を荒げることではなく、相手の感情に巻き込まれずに主張を保ち続けることなのである。改革の現場で反発を受ける管理職にとって、そのまま手本になる応じ方である。

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