論語と算盤 / 処世と信条・大丈夫の試金石
併し自然的逆境は大丈夫の試金石であるが、さて其の逆境に立つた場合は如何に其間に処すべきか、神ならぬ身の余は別にそれに対する特別の秘訣を持つものではない、又恐らく社会にも左様いふ秘訣を知つた人はなからうと思ふ、併しながら余が逆境に立つた時、自ら実験した所、及び道理上から考へて見るに、
書き下し
しかし自然的逆境は大丈夫の試金石であるが、さてその逆境に立った場合はいかにその間に処すべきか。神ならぬ身の余は別にそれに対する特別の秘訣を持つものではない。また恐らく社会にもそういう秘訣を知った人はなかろうと思う。しかしながら余が逆境に立った時、自ら実験したところ、および道理上から考えて見るに。
現代語訳
さて、自然的な逆境は大丈夫(立派な男子)の試金石であるが、その逆境に立ったときには、どのように身を処すべきだろうか。神ならぬ身の私は、とくにそれに対する特別な秘訣を持っているわけではない。またおそらく世の中にも、そういう秘訣を知っている人はいないだろうと思う。しかしながら、私が逆境に立ったときに自ら体験したところ、および道理のうえから考えてみると、次のようになる。
解説
自然的逆境は大丈夫の試金石である、という章題の句がここに出る。試金石とは金の品位を確かめるために擦りつける黒い石のことで、転じて人の真価を試すものを指す。大丈夫は志の高い立派な男子の意で、孟子が滕文公篇で「富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず、此れを之れ大丈夫と謂う」と述べた語である。この言い回しには当時の男性中心の人間観が表れているが、今日なら性別を問わず人の器量と読めばよい。渋沢は、逆境への特別な秘訣など自分も持たないし、世に知る者もいないだろうと率直に断る。そのうえで、自分の体験と道理から考えたことを述べる、と次段の処方へつなぐ。秘訣はないと言い切る謙虚さは、かえって以下の言葉の信用を高めている。
関連する章句
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石もし何人でも自然的逆境に立った場合には、第一にその場合に自己の本分であると覚悟するのが唯一の策であろうと思う。足るを知りて分を守り、これはいかに焦慮すればとて、天命であるから仕方がないとあきらめるならば、いかに処し難き逆境に居ても、心は平らかなるを得るに相違ない。しかるにもしこの場合をすべて人為的に解釈し、人間の力でどうにかなるものであると考えるならば、いたずらに苦労の種を増すばかりか、労して功のない結果となり、ついには逆境に疲れさせられて、後日の策を講ずることも出来なくなってしまうであろう。ゆえに自然的の逆境に処するに当たっては、まず天命に安んじ、おもむろに来るべき運命を待ちつつ、たわまず屈せず勉強するがよい。
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石したがってその渦中に投ぜられて逆境に立つ人も常にあることであろうから、世の中に逆境は絶対に無いと言い切ることは出来ないのである。ただ順逆を立つる人は、よろしくそのよって来る所以を講究し、それが人為的逆境であるか、ただしは自然的逆境であるかを区別し、しかる後これに応ずるの策を立てねばならぬ。
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石真の逆境とはいかなる場合をいうか、実例に徴して一応の説明を試みたいと思う。およそ世の中は順調を保って平穏無事にゆくのが普通であるべき筈ではあるが、水に波動のあるごとく、空中に風の起こるがごとく、平静なる国家社会すらも、時としては革命とか変乱とかいうことが起こって来ないとも断言されない。そしてこれを平静無事な時に比すれば明らかに逆であるが、人もまたこのごとき変乱の時代に生まれ合い、心ならずもその渦中に巻き込まれるは不幸の者で、こういうのが真の逆境に立つというのではあるまいか。果たしてしからば余もまた逆境に処して来た一人である。余は維新前後世の中が最も騒々しかった時代に生まれ合い、さまざまの変化に遭遇して今日に及んだ。顧みるに維新の際におけるがごとき世の変化に際しては、いかに智能ある者でも、また勉強家でも、意外な逆境に立ったり、あるいは順境に向かったりしないとは言われない。
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石それに反して、人為的逆境に陥った場合はいかにすべきかというに、これは多く自働的なれば、何でも自分に省みて悪い点を改めるより外はない。世の中の事は多く自働的のもので、自分からこうしたいああしたいと奮励さえすれば、たいがいはその意のごとくになるものである。しかるに多くの人は自ら幸福なる運命を招こうとはせず、かえって手前の方からほとんど故意にねじけた人となって逆境を招くような事をしてしまう。それでは順境に立ちたい、幸福な生涯を送りたいとて、それを得られる筈がないではないか。
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『論語と算盤』成敗と運命・順逆の二境は何れより来るか以上述べた所よりすれば、余は逆境はないものであると絶対に言い切りたいのであるが、そうまで極端に言い切れない場合が一つある。それは智能才幹何一つの欠点もなく、勤勉精励、人の師表と仰ぐに足るだけの人物でも、政治界実業界に順当に志の行われてゆく者と、その反対に何事も意と反して蹉跌する者とがある。そうして後者のごとき者に対して、余は真意義の逆境なる言葉を用いたいのである。
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『論語と算盤』成敗と運命・順逆の二境は何れより来るかもしその人に優れた智能があり、これに加うるに欠くる所なき勉強をしてゆけば、決して逆境にいる筈はない。逆境がなければ順境という言葉も消滅する。自ら進んで逆境という結果を造る人があるから、それに対して順境などという言葉も起こって来るのである。
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