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論語と算盤 / 処世と信条・争ひの可否

世間には争ひを絶対に排斥し、如何なる場合に於ても争ひをするといふことは宜しくない、『人若し爾の右の頰を打たば、左の頰をも向けよ』などと説く者もある、斯んな次第で、他人と争ひをするといふことは、処世上に果して利益になるものだらうか、将た不利益を与へるものだらうか、この実際問題になれば、随分人によつて意見が異なることだらうと思ふ、争ひは決して排斥すべきで無いと言ふものがあるかと思へば、又絶対に排斥すべきものだと考へて居る人もある。私一己の意見としては、争ひは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであらうかと信ずるのである、私に対し、世間では余りに円満過ぎる、などとの非難もあるらしく聞き及んで居るが、私は漫りに争ふ如き事こそせざれ、世間の皆様達がお考へになつて居る如く、争ひを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得て居るほどに、さう円満な人間でも無い。

新字:世間には争ひを絶対に排斥し、如何なる場合に於ても争ひをするといふことは宜しくない、『人若し爾の右の頬を打たば、左の頬をも向けよ』などと説く者もある、斯んな次第で、他人と争ひをするといふことは、処世上に果して利益になるものだらうか、将た不利益を与へるものだらうか、この実際問題になれば、随分人によつて意見が異なることだらうと思ふ、争ひは決して排斥すべきで無いと言ふものがあるかと思へば、又絶対に排斥すべきものだと考へて居る人もある。私一己の意見としては、争ひは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであらうかと信ずるのである、私に対し、世間では余りに円満過ぎる、などとの非難もあるらしく聞き及んで居るが、私は漫りに争ふ如き事こそせざれ、世間の皆様達がお考へになつて居る如く、争ひを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得て居るほどに、さう円満な人間でも無い。

書き下し

世間には争いを絶対に排斥し、いかなる場合においても争いをするということはよろしくない、『人もしなんじの右の頬を打たば、左の頬をも向けよ』などと説く者もある。こんな次第で、他人と争いをするということは、処世上に果たして利益になるものだろうか、はたまた不利益を与えるものだろうか。この実際問題になれば、随分人によって意見が異なることだろうと思う。争いは決して排斥すべきでないと言うものがあるかと思えば、また絶対に排斥すべきものだと考えている人もある。私一己の意見としては、争いは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであろうかと信ずるのである。私に対し、世間ではあまりに円満過ぎる、などとの非難もあるらしく聞き及んでいるが、私はみだりに争うごとき事こそせざれ、世間の皆様たちがお考えになっているごとく、争いを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得ているほどに、そう円満な人間でもない。

現代語訳

世間には、争いを絶対に退け、どんな場合でも争いをするのはよくない、「人がもしあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けよ」などと説く者もいる。このようなわけで、他人と争うということは、世を渡るうえで果たして利益になるのだろうか、それとも不利益をもたらすのだろうか。この実際問題となると、人によってずいぶん意見が異なることだろうと思う。争いは決して退けるべきでないと言う者がいるかと思えば、絶対に退けるべきだと考えている人もいる。私個人の意見としては、争いは決して絶対に退けるべきものではなく、世を渡るうえでもたいへん必要なものであろうと信じている。私に対して、世間ではあまりに円満すぎる、などという非難もあるらしいと聞いているが、私はむやみに争うようなことこそしないものの、世間の皆さんがお考えになっているように、争いを絶対に避けることを処世の唯一の方針と心得ているほど、そう円満な人間でもない。

解説

争ひの可否、の章の冒頭である。渋沢はまず、争いを絶対に退ける立場の例として新約聖書マタイ伝の「右の頬を打たば左の頬をも向けよ」を挙げ、争いは処世に利益か不利益かという問いを立てる。答えは明快で、争いは絶対に排斥すべきものではなく、処世の上にも甚だ必要だと言う。興味深いのは、世間が渋沢を円満すぎると評していることに触れ、自分はそれほど円満な人間ではないと言い返している点だ。渋沢は協調の人として知られ、労使の協調を説き、多くの会社や団体の調停役を務めた。しかしその協調は、争いを避ける事なかれ主義から来ているのではない。争うべきときには争う覚悟を持ったうえでの協調である。争いを嫌う人は穏やかに見えるが、言うべきことを言わない組織は、いずれ問題を内側に溜め込む。

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