論語と算盤 / 処世と信条・時期を待つの要あり
是等の点は、私が今日に於て極力争つて見たいと思ふところだが、たとひ如何に私が争つたからとて、或る時期の到来するまでは、到底大勢を一変するわけにゆかぬものと考へて居るので、目下のところ私は、折に触れ不平を洩すぐらゐに止め、敢て争はず、時期を待つてるのである。
書き下し
これらの点は、私が今日において極力争って見たいと思うところだが、たといいかに私が争ったからとて、ある時期の到来するまでは、到底大勢を一変するわけにゆかぬものと考えているので、目下のところ私は、折に触れ不平を洩らすぐらいに止め、あえて争わず、時期を待っているのである。
現代語訳
これらの点は、私が今日、力を尽くして争ってみたいと思うところだが、たとえどれほど私が争ったところで、ある時期が来るまでは、とうてい大勢を一変させることはできないと考えている。だから今のところ私は、折にふれて不平を漏らす程度にとどめ、あえて争わずに時期を待っているのである。
解説
官尊民卑に憤りながら、なぜ渋沢は争わないのか。その答えがこの短い段にある。どれほど争っても、ある時期が来るまでは大勢は変わらない。だから今は折に触れて不平を漏らす程度にとどめ、時期を待つ。前の二段で不公平の中身を具体的に言葉にしていたことが示すように、渋沢は問題を見失ってはいない。大勢、つまり社会全体の流れが変わる時機を見て、その時に力を集中するという判断である。実際、渋沢は争う代わりに、商業教育の普及や商工会議所の育成を通じて民間の力と地位を少しずつ引き上げていった。正面から争うことだけが闘い方ではない。構造が生んだ問題には、構造が動く時機があり、それまでに自分の側の力を蓄えておくことができる。不平を漏らしつつ待つ、というこの姿勢は、忍耐と準備を組み合わせた一つの戦略として読める。
関連する章句
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『論語と算盤』処世と信条・時期を待つの要ありこれは世の中のことは、かくすれば必ずかくなるものである、という因果の関係をよく呑込んでしまって、既にある事情が因をなしてある結果を生じてしまっているところに、突然横から現れて形勢を転換しようとし、いかに争って見たところが、因果の関係は俄にこれを断ち得るものでなく、ある一定の時期に達するまでは、人力で到底形勢を動かし得ざるものであることに想い到ったからである。人が世の中に処して行くのには、形勢を観望して気長に時期の到来を待つということも、決して忘れてはならぬ心懸けである。正しきを曲げんとするもの、信ずる所を屈せしめんとする者あらば、断じてこれと争わねばならぬ、と青年子弟諸君に勧めるかたわら、私はまた気長に時期の到来を待つの忍耐もなければならぬことを、ぜひ青年子弟諸君に考えて置いてもらいたいのである。
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『論語と算盤』処世と信条・時期を待つの要ありいやしくも人と生まれ――ことに青年時代において、絶対に争いを避けようとするごとき卑屈の根性では、到底進歩する見込みも発達する見込みもなく、また社会進運の上にも争いの必要であることは、言うまでもないのであるが、争いをしいて避けぬと同時に、時期の到来を気長に待つということも、処世の上には必要欠くべからざるものである。私は今日とてももちろん、争わざるべからざるところは争いもするが、半生以上の長い間の経験によって、いささか悟ったところがあるので、若い時におけるがごとくに、争うことをあまり多く致さぬようになったかのごとくに自分ながら思われる。
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『論語と算盤』処世と信条・時期を待つの要あり私は、日本今日の現状に対しても、極力争って見たいと思うことがないでもない、いくらもある。なかんずく日本の現状で私の最も遺憾に思うのは官尊民卑の弊がまだ止まぬことである。官にある者ならば、いかに不都合なことを働いても、たいていは看過せられてしまう。たまたま世間物議の種を作って、裁判沙汰となったり、あるいは隠居をせねばならぬような羽目に遇うごとき場合もないではないが、官にあって不都合を働いている全体の者に比較すれば、実に九牛の一毛、大海の一滴にも当たらず、官にある者の不都合の所為は、ある程度までは黙許の姿であると言っても、あえて過言ではないほどである。
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『論語と算盤』処世と信条・時期を待つの要ありこれに反し、民間にある者は、少しでも不都合の所為があれば、直ちに摘発されて、たちまち縲紲の憂き目に遇わねばならなくなる。不都合の所為あるものはすべて罰せねばならぬとならば、その間に朝にあると野にあるとの差別を設け、一方は寛に一方は酷であるようなことがあってはならぬ。もし大目に看過すべきものならば、民間にある人々に対しても官にある人々に対すると同様に、これを看過して然るべきものである。しかるに日本の現状は、今もって官民の別により寛厳の手心を異にしている。また民間にある者がいかに国家の進運に貢献するような功績を挙げても、その功が容易に天朝に認められぬに反し、官にある者は寸功があったのみでも、すぐにそれが認められて恩賞にあずかるようになる。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれ私も絶対に争いをせぬ人間であるかのように解せらるる人も、世間に少なからぬように見受けるが、私はもちろん、好んで他人と争うことこそせざれ、全く争いをせぬというではない。
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『論語と算盤』立志と学問・君子の争ひたれいやしくも正しい道をあくまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることは出来ぬものである。絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行われぬようになってしまう。私は不肖ながら、正しい道に立ってなお悪と争わず、これに道を譲るほどに、いわゆる円満な腑甲斐のない人間でないつもりである。人間にはいかに円くとも、どこかに角が無ければならぬもので、古歌にもあるごとく、あまり円いとかえって転びやすいことになる。
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