論語と算盤 / 処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓
私は今までに五人の手で論語を講究して居るが、学問的でないから、時には深い意味を知らずに居ることがある、例へば、泰伯第八の『邦有道、貧且賤焉、恥也、邦無道、富且貴焉、恥也』の語の如きも、今となつて深い意味を含んで居ることを知つた、此度は論語を委しく攻究して居るので、色々な点に気がついて悟るところが多い、
書き下し
私は今までに五人の手で論語を講究しているが、学問的でないから、時には深い意味を知らずにいることがある。例えば、泰伯第八の『邦有道、貧且賤焉、恥也、邦無道、富且貴焉、恥也』の語のごときも、今となって深い意味を含んでいることを知った。このたびは論語を委しく攻究しているので、いろいろな点に気がついて悟るところが多い。
現代語訳
私はこれまでに五人の先生について論語を研究してきたが、学問的な読み方ではないから、時には深い意味を知らずにいることがある。たとえば泰伯第八の「国に道が行われているのに、貧しく身分が低いのは恥である。国に道が行われていないのに、富んで身分が高いのは恥である」という言葉なども、今になって深い意味を含んでいることを知った。今回は論語を詳しく研究しているので、いろいろな点に気がついて悟るところが多い。
解説
五人の講師について論語を学んできた渋沢が、なお新たに悟ることがあると語る段である。例に挙がる泰伯篇の「邦に道有るに、貧しく且つ賤しきは恥なり。邦に道無きに、富み且つ貴きは恥なり」は、世の中がまともなときに貧しいのは努力が足りない恥であり、世が乱れているときに富み栄えるのは不正に与した恥である、という意味である。実業家として富を築いた渋沢にとって、この句は自分の富が正しい世で正しく得られたものかを問う鏡になる。富むことそのものではなく、どういう世で、どういう手段で富んだかが問われる。何度も読んだ本ほど、読み手の立場が変わると別の顔を見せる。熟知していると思い込んだ古典を、時を置いて読み返す価値がここにある。
関連する章句
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観この言葉はいかにも言裡に富貴を軽んじた所があるようにも思われるが、実は側面から説かれたもので、仔細に考えて見れば、富貴を賤しんだところは一つもない。その主旨は富貴に淫するものを誡められたまでで、これをもって直ちに孔子は富貴を厭悪したとするは、誤謬もまた甚だしと言わねばならぬ。孔子の言わんと欲する所は、道理を持った富貴でなければ、むしろ貧賤の方がよいが、もし正しい道理を踏んで得たる富貴ならばあえて差支えないとの意である。して見れば富貴を賤しみ貧賤を推称した所はさらにないではないか。この句に対して正当の解釈を下さんとならば、よろしく「道を以てせずして之を得れば」という所によく注意することが肝要である。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観従来儒者が孔子の説を誤解していた中にも、その最も甚だしいのは富貴の観念貨殖の思想であろう。彼らが論語から得た解釈によれば、「仁義王道」と「貨殖富貴」との二者は氷炭相容れざるものとなっている。しからば孔子は「富貴の者に仁義王道の心あるものはないから、仁者となろうと心掛けるならば富貴の念を捨てよ」という意味に説かれたかと言うに、論語二十篇を隈なく捜索してもそんな意味のものは一つも発見することは出来ない。否、むしろ孔子は貨殖の道に向かって説をなしておられる。しかしながらその説き方が例の半面観的であるものだから、儒者がこれに向かって全局を解することが出来ず、ついに誤りを世に伝えるようになってしまったのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観例を挙ぐれば、論語の中に「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得れば去らざるなり」という句がある。
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『論語と算盤』処世と信条・論語と算盤は甚だ遠くして甚だ近いもの今の道徳によって最も重なるものとも言うべきものは、孔子のことについて門人たちの書いた論語という書物がある。これは誰でも大抵読むということは知っているが、この論語というものと、算盤というものがある。これは甚だ不釣合で、大変に懸隔したものであるけれども、私は不断にこの算盤は論語によって出来ている、論語はまた算盤によって本当の富が活動されるものである。ゆえに論語と算盤は、甚だ遠くして甚だ近いものであると始終論じているのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・孔夫子の貨殖富貴観さらに一例をもってすれば、同じく論語中に「富にして求むべくんば、執鞭の士といえども、我またこれを為さん、もし求むべからずんば、我が好む所に従わん」という句がある。これも普通には富貴を賤しんだ言葉のように解釈されているが、今正当の見地からこれを解釈すれば、句中富貴を賤しんだというようなことは一も見当たらないのである。富を求め得られたなら、賤しい執鞭の人となってもよいというのは、正道仁義を行って富を得らるるならばということである。すなわち「正しい道を踏んで」という句がこの言葉の裏面に存在していることに注意せねばならぬ。そして下半句は正当の方法をもって富を得られぬならば、いつまでも富に恋々としていることはない、奸悪の手段を施してまでも富を積まんとするよりも、むしろ貧賤に甘んじて道を行う方がよいとの意である。ゆえに道に適せぬ富は思い切るがよいが、必ずしも好んで貧賤におれとは言ってない。
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論語・泰伯篇子曰く、篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くす。危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道有れば則ち見れ、道無ければ則ち隠る。邦に道有りて、貧しく且つ賤しきは、恥なり。邦に道無くして、富み且つ貴きは、恥なり。
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