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武士道 / 第八章 名譽・恥を知るは諸徳の原

縱令微小なりとも、創を蒙らんことは我が願ふ所にあらずと。白石の既に少年の日に當り、苟も節を屈し、耻を負ふの事を甘んじ、以て畢生の大創を蒙り、敢て其天分を壞り、品性を害することを肯ぜざりしもの、實に士たるの本懷を吐露して違はざりしものと謂ふべし。孟子が『羞惡之心、義之端也』と教へてより後、二千年にして、カーライルは殆ど同義の辯をなして日へり。『耻を知るは、諸德の原、良容善行の根なり』と。武士は耻を恐るゝこと甚だしきものありき。我國文學は、沙翁がノーフオルクの口に上ぼせたるが如き雄辯なる詞句を有せざれど、猶ほ耻を恐るゝの念は武士の頭上に懸れるダモクリーズの劍なりき。然り恥を恐るゝは大に可なり、されど其の過ぐるや、徃々病的なる性質を帶ぶることなきにあらず。

新字:縦令微小なりとも、創を蒙らんことは我が願ふ所にあらずと。白石の既に少年の日に当り、苟も節を屈し、耻を負ふの事を甘んじ、以て畢生の大創を蒙り、敢て其天分を壊り、品性を害することを肯ぜざりしもの、実に士たるの本懐を吐露して違はざりしものと謂ふべし。孟子が『羞悪之心、義之端也』と教へてより後、二千年にして、カーライルは殆ど同義の弁をなして日へり。『耻を知るは、諸徳の原、良容善行の根なり』と。武士は耻を恐るゝこと甚だしきものありき。我国文学は、沙翁がノーフオルクの口に上ぼせたるが如き雄弁なる詞句を有せざれど、猶ほ耻を恐るゝの念は武士の頭上に懸れるダモクリーズの剣なりき。然り恥を恐るゝは大に可なり、されど其の過ぐるや、往々病的なる性質を帯ぶることなきにあらず。

書き下し

たとひ微小なりとも、創を蒙らんことは我が願ふ所にあらず』と。白石の既に少年の日に当り、いやしくも節を屈し、恥を負ふの事を甘んじ、以て畢生の大創を蒙り、敢て其天分を壊り、品性を害することを肯ぜざりしもの、実に士たるの本懐を吐露して違はざりしものと謂ふべし。孟子が『羞悪の心は義の端なり』と教へてより後、二千年にして、カーライルは殆ど同義の弁をなして曰へり。『恥を知るは、諸徳の原、良容善行の根なり』と。武士は恥を恐るること甚だしきものありき。我国文学は、シェイクスピアがノーフォークの口に上ぼせたるが如き雄弁なる詞句を有せざれど、なお恥を恐るるの念は、武士の頭上に懸れるダモクレスの剣なりき。然り、恥を恐るるは大に可なり。されど其の過ぐるや、往々病的なる性質を帯ぶることなきにあらず。

現代語訳

たとえわずかであっても、傷を受けることは私の願うところではありません、と。白石が少年の日にあって、仮にも節を曲げ恥を負うことに甘んじて、一生の大きな傷を受け、自分の天分を壊し品性を害することを肯んじなかったのは、実に武士としての本懐を吐露して違わないものと言うべきです。孟子が、恥じ悪む心は義の端緒である、と教えてから二千年後に、カーライルはほとんど同じ意味のことを述べて言いました。恥を知ることは、あらゆる徳の源であり、よい姿とよい行いの根である、と。武士は恥を恐れることが甚だしいものがありました。わが国の文学には、シェイクスピアがノーフォークの口に上らせたような雄弁な言葉はありませんが、それでも恥を恐れる念は武士の頭上に懸かるダモクレスの剣でした。そうです、恥を恐れることは大いに結構です。しかしそれが過ぎると、しばしば病的な性質を帯びることがあります。

解説

白石の断りが、節を曲げないという一点に集約されます。そして孟子の羞悪の心とカーライルの言葉が二千年を隔てて並べられ、恥を知ることが徳の源だと確かめられます。ただし最後に釘が刺されます。恥を恐れるのが過ぎると病的になる。ダモクレスの剣という比喩が示すとおり、頭上に吊るされた刃として一生つきまとう。次の段からその弊害が語られていきます。

この章句が説くこと

白石孟子過剰

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