論語と算盤 / 処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓
其れからといふものは、勢ひ論語を読まなければならぬ事になり、中村敬宇先生や、信夫恕軒先生に講義を聴いた、何れも多忙なものだから、終りまでは成し遂げなんだが、最近からは大学の宇野さんに願つて復た始めた、主として子供の為に遣つて居るが、私も必ず出席して聴き、そして種々と質問し、又解釈に就て意見が出たりして、中々面白く有益である、一章々々講義し、皆で考へて本当に分つて後進むのだから中々進まないが、その代り意味は善く判つて、子供なども大変に面白がつて居る。
書き下し
それからというものは、勢い論語を読まなければならぬ事になり、中村敬宇先生や、信夫恕軒先生に講義を聴いた。いずれも多忙なものだから、終わりまでは成し遂げなんだが、最近からは大学の宇野さんに願ってまた始めた。主として子供のためにやっているが、私も必ず出席して聴き、そして種々と質問し、また解釈について意見が出たりして、なかなか面白く有益である。一章一章講義し、皆で考えて本当に分かって後進むのだからなかなか進まないが、その代わり意味はよく判って、子供なども大変に面白がっている。
現代語訳
それからというものは、自然と論語を読まなければならないことになり、中村敬宇先生や信夫恕軒先生に講義を聴いた。どちらも忙しかったので、最後までやり遂げることはできなかったが、最近になって大学の宇野(哲人)さんにお願いして、また始めた。主に子どもたちのためにやっているのだが、私も必ず出席して聴き、いろいろと質問したり、解釈について意見が出たりして、なかなか面白く有益である。一章ずつ講義して、皆で考え、本当に分かってから先へ進むのだから、なかなか進まないが、その代わり意味はよく分かり、子どもたちもたいへん面白がっている。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓私は今までに五人の手で論語を講究しているが、学問的でないから、時には深い意味を知らずにいることがある。例えば、泰伯第八の『邦有道、貧且賤焉、恥也、邦無道、富且貴焉、恥也』の語のごときも、今となって深い意味を含んでいることを知った。このたびは論語を委しく攻究しているので、いろいろな点に気がついて悟るところが多い。
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『論語と算盤』立志と学問・大立志と小立志との調和以上述べる所は主として立志の工夫であるが、古人はいかに立志をしたものであるか、参考として孔子の立志について研究して見よう。自分が平素処世上の規矩としている論語を通じて孔子の立志を窺うに、「十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る云々」とある所より推測すれば、孔子は十五歳の時すでに志を立てられたものと思われる。しかしながらその「学に志す」と言われたのは、学問をもって一生を過ごすつもりであるという志を固く定めたものかどうか、これはやや疑問とする所で、ただこれから大いに学問しなければならぬというくらいに考えたものではなかろうか。さらに進んで「三十にして立つ」と言われたのは、この時すでに世に立って行けるだけの人物となり、修身斉家治国平天下の技倆ありと自信する境地に達せられたのであろう。
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『論語と算盤』処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓明治六年官を辞して、年来の希望なる実業に入ることになってから、論語に対して特別の関係が出来た。それは始めて商売人になるという時、ふと心に感じたのは、これからはいよいよ銖錙の利もて世渡りをしなければならぬが、志をいかに持つべきかについて考えた。その時前に習った論語のことを思い出したのである。論語には己を修め人に交わる日常の教えが説いてある。論語は最も欠点の少ない教訓であるが、この論語で商売は出来まいかと考えた。そして私は論語の教訓に従って商売し、利殖を図ることが出来ると考えたのである。
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『論語と算盤』処世と信条・士魂商才ゆえに私は人の世に処せんとして道を誤まらざらんとするには、まず論語を熟読せよというのである。現今世の進歩に従って欧米各国から新しい学説が入って来るが、その新しいというは我々から見ればやはり古いもので、既に東洋で数千年前に言っている事と同一のものを、ただ言葉の言い廻しをうまくしているに過ぎぬと思われるものが多い。欧米諸国の日進月歩の新しいものを研究するのも必要であるが、東洋古来の古いものの中にも棄て難いもののあることを忘れてはならぬ。
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『論語と算盤』処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓人間の勤むべき尊い仕事は到る処にある、官だけが尊いのではないといろいろ論語などを援いて弁駁し説きつけたのである。そして私は論語を最も瑕瑾のないものと思うたから、論語の教訓を標準として、一生商売をやって見ようと決心した。それは明治六年の五月のことであった。
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『論語と算盤』処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓しかし論語は決して六ケ敷い学理ではない。六ケ敷いものを読む学者でなければ解らぬというようなものでない。論語の教は広く世間に効能があるので、元来解り易いものであるのを、学者が六ケ敷くしてしまい、農工商などのあずかり知るべきもので無いというようにしてしまった。商人や農人は論語を手にすべきもので無いというようにしてしまった。これは大なる間違である。このごとき学者は、たとえばやかましき玄関番のような者で、孔夫子には邪魔物である。こんな玄関番を頼んでは孔夫子に面会することは出来ぬ。孔夫子は決して六ケ敷屋でなく、案外捌けた方で、商人でも農人でも誰にでも会って教えてくれる方で、孔夫子の教は実用的の卑近の教である。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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