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論語と算盤 / 処世と信条・論語は万人共通の実用的教訓

併し論語は決して六ケ敷い学理ではない、六ケ敷いものを読む学者でなければ解らぬといふやうなものでない、論語の教は広く世間に効能があるので、元来解り易いものであるのを、学者が六ケ敷くして了い、農工商などの与かり知るべきもので無いといふやうにして了つた、商人や農人は論語を手にすべきもので無いといふやうにして了つた、之は大なる間違である。此の如き学者は、喩へば八ケましき玄関番のやうな者で、孔夫子には邪魔物である、斯んな玄関番を頼んでは孔夫子に面会することは出来ぬ、孔夫子は決して六ケ敷屋でなく、案外捌けた方で、商人でも農人でも誰にでも会つて教へて呉れる方で、孔夫子の教は実用的の卑近の教である。

書き下し

しかし論語は決して六ケ敷い学理ではない。六ケ敷いものを読む学者でなければ解らぬというようなものでない。論語の教は広く世間に効能があるので、元来解り易いものであるのを、学者が六ケ敷くしてしまい、農工商などのあずかり知るべきもので無いというようにしてしまった。商人や農人は論語を手にすべきもので無いというようにしてしまった。これは大なる間違である。このごとき学者は、たとえばやかましき玄関番のような者で、孔夫子には邪魔物である。こんな玄関番を頼んでは孔夫子に面会することは出来ぬ。孔夫子は決して六ケ敷屋でなく、案外捌けた方で、商人でも農人でも誰にでも会って教えてくれる方で、孔夫子の教は実用的の卑近の教である。

現代語訳

しかし論語は決してむずかしい学理ではない。難解な書物を読む学者でなければ分からない、というたぐいのものではない。論語の教えは広く世間に効き目があり、もともと分かりやすいものなのに、学者がそれを難しくしてしまい、農工商の者などが関わるべきものではない、商人や百姓が手に取るべきものではない、というふうにしてしまった。これは大変な間違いである。こういう学者は、たとえば口やかましい玄関番のようなもので、孔子にとっては邪魔者である。こんな玄関番を通していては孔子に会うことはできない。孔子は決して気難し屋ではなく、案外さばけた人で、商人でも百姓でも誰にでも会って教えてくれる。孔子の教えは実用的で身近な教えなのである。

解説

渋沢が明治六年に官を辞して実業に入るとき、論語で商売ができるか、と自問した——その答えがこの章である。同じ章には、大審院長になった友人の玉乃世履から「賤しむべき金銭に眼が眩み、官を去つて商人になるとは実に呆れる」と面罵された場面が出てくる。渋沢は趙普の「論語の半ばで宰相を助け、半ばで吾身を修めた」を引いて言い返し、論語を標準として一生商売をやると決めた。だからこの一段は学問論ではなく、参入の宣言である。古典を専門家の所有物にする「玄関番」を押しのけて、現場の人間が直接に使う。師導という場もこの立場に立っている。

この章句が説くこと

実用的の卑近の教玄関番論語で商売万人共通

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

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