論語と算盤 / 処世と信条・人物の観察法
如何に外部に顕はれる行為が正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、其人は決して正しい人であるとは言へぬ、時には悪を敢てすること無しとせずである、また外部に現はれた行為も正しく、これが動機となる精神も亦正しいからとて、若しその安んずるところが飽食暖衣逸居するに在りといふやうでは、時に誘惑に陥つて意外の悪を為すやうにもなるものである、故に行為と動機と、満足する点との三拍子が揃つて正しくなければ、其人は徹頭徹尾永遠まで正しい人であるとは言ひかねるのである。
書き下し
いかに外部に顕れる行為が正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、その人は決して正しい人であるとは言えぬ。時には悪をあえてすること無しとせずである。また外部に現れた行為も正しく、これが動機となる精神もまた正しいからとて、もしその安んずるところが飽食暖衣逸居するに在りというようでは、時に誘惑に陥って意外の悪を為すようにもなるものである。ゆえに行為と動機と、満足する点との三拍子が揃って正しくなければ、その人は徹頭徹尾永遠まで正しい人であるとは言いかねるのである。
現代語訳
どれほど外に現れる行いが正しく見えても、その行いの動機となる精神が正しくなければ、その人は決して正しい人とは言えない。時には悪をあえて行うこともないとは言えない。また、外に現れた行いも正しく、その動機となる精神も正しいからといって、もしその人の安んじるところが、腹いっぱい食べ暖かく着て気ままに暮らすことにある、というのであれば、時に誘惑に陥って思いがけない悪を行うようにもなる。だから、行いと動機と満足するところ、この三拍子がそろって正しくなければ、その人が始めから終わりまで、いつまでも正しい人であるとは言いかねるのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』処世と信条・人物の観察法視も観もともに「ミル」と読むが、視は単に外形を肉眼によって見るだけの事で、観は外形よりもさらに立ち入ってその奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見ることである。すなわち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、まず第一にその人の外部に顕れた行為の善悪正邪を相し、それからその人の行為は何を動機にしているものであるかをとくと観、さらに一歩を進めて、その人の安心はどこにあるか、その人は何に満足して暮らしているか等を知ることにすれば、必ずその人の真人物が明瞭になるもので、いかにその人が隠そうとしても、隠し得られるものでないというにある。
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『論語と算盤』処世と信条・人物の観察法論語に『子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉廋哉、人焉廋哉』。初見の時に人を相する佐藤一斎先生の観察法や、人の眸子を観てその人を知る孟子の観察法は、ともにすこぶる簡易な手っ取り早い方法で、これによってたいていは大過なく、人物を正当に識別し得らるるものであるが、人を真に知ろうとするには、かかる観察法では到らぬところがあるから、ここに挙げた論語為政篇の章句のごとく、視、観、察の三つをもって人を識別せねばならぬものだというのが、孔夫子の遺訓である。
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論語・為政篇子曰く、「其の以てする所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ廋(かく)さんや、人焉んぞ廋さんや。」
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『論語と算盤』処世と信条・人物の観察法また孟子は『存乎人者、莫良於眸子、眸子不能掩其悪、胸中正、則眸子瞭焉、胸中不正、則眸子眊焉』と、孟子一家の人物観察法を説かれている。すなわち孟子の人物観察法は、人の眼によってその人物のいかんを鑑別するもので、心情の正しからざるものは何となく眼に曇りがあるが、心情の正しいものは、眼が瞭然として淀みがないから、これによってその人のいかなる人格であるやを判断せよというにある。この人物観察法もなかなか的確の方法で、人の眼をよく観て置きさえすれば、その人の善悪正邪はたいてい知れるものである。
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『論語と算盤』常識と習慣・親切らしき不親切これに反して、志が多少曲がっていても、その所作が機敏で忠実で、人の信用を得るに足るものがあれば、その人は成功する。行為の本である志が曲がっていても所作が正しいという理屈は、厳格に言えばあろうはずはないが、聖人も欺くに道をもってすれば与しやすきがごとく、実社会においても人の心の善悪よりは、その所作の善悪に重きを措くがゆえに、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別しやすきがゆえに、どうしても所作の敏活にして善なる者の方が信用されやすい。例えば将軍吉宗公が巡視された時、親孝行の者が老母を背負って拝観に出て褒美をもらった。ところが、平素不良の一無頼漢がこれを聞いて、それでは俺も一つ褒美をもらってやろうと、他人の老婆を借りて背負って拝観に出かけた。吉宗公がこれに褒美を下さると、側役人から彼は褒美をもらわんための偽孝行であると故障を申し立てた。すると吉宗公は、いや真似は結構であると篤く労われたということである。また孟子の言に、「西子も不潔を蒙らば、すなわち人皆鼻を掩うてこれを過ぐ」というのがある。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何しかし孔子自身は果たしてさように下級生と感じたであろうか。文王、武王、周公、孔子皆その分に満足してその生を終えたとするならば、富をもって人の真価の標準とし、孔子をもって人間の下級生なりとなすのは、適当なる評価と言い得るであろうか。これをもって人を評価するの困難を知るべきである。よくその人のもってする所を視、その由る所を観て、そして後その人の行為が世道人心にいかなる効果ありしかを察せざれば、これを評定することは出来ぬと思う。
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