六祖壇経 / 付嘱品第十
法身報身及化身,三身本來是一身,若向性中能自見,即是成佛菩提因。本從化身生淨性,淨性常在化身中,性使化身行正道,當來圓滿真無窮。淫性本是淨性因,除淫即是淨性身,性中各自離五欲,見性剎那即是真。今生若遇頓教門,忽悟自性見世尊,若欲修行覓作佛,不知何處擬求真。若能心中自見真,有真即是成佛因,不見自性外覓佛,起心總是大痴人。頓教法門今已留,救度世人須自修,報汝當來學道者,不作此見大悠悠。」』師說偈已,告曰:『汝等好住,吾滅度後,莫作世情悲泣雨淚,受人弔問。身著孝服,非吾弟子,亦非正法。但識自本心,見自本性,無動無靜,無生無滅,無去無來,無是無非,無住無往。恐汝等心迷,不會吾意,今再囑汝,令汝見性。吾滅度後,依此修行,如吾在日;若違吾教,縱吾在世,亦無有益。』復說偈曰:『兀兀不修善,騰騰不造惡,寂寂斷見聞,蕩蕩心無著。』師說偈已,端坐至三更,忽謂門人曰:『吾行矣!』奄然遷化,於時異香滿室,白虹屬地,林木變白,禽獸哀嗚。十一月,廣韶新三郡官僚,洎門人緇白,爭迎真身,莫決所之。乃焚香禱曰:『香煙指處,師所歸焉。』時,香煙直貫曹溪。十一月十三日,遷神龕並所傳衣缽而回。
新字:法身報身及化身,三身本来是一身,若向性中能自見,即是成仏菩提因。本従化身生浄性,浄性常在化身中,性使化身行正道,当来円満真無窮。淫性本是浄性因,除淫即是浄性身,性中各自離五欲,見性刹那即是真。今生若遇頓教門,忽悟自性見世尊,若欲修行覓作仏,不知何処擬求真。若能心中自見真,有真即是成仏因,不見自性外覓仏,起心総是大痴人。頓教法門今已留,救度世人須自修,報汝当来学道者,不作此見大悠悠。」』師説偈已,告曰:『汝等好住,吾滅度後,莫作世情悲泣雨涙,受人弔問。身著孝服,非吾弟子,亦非正法。但識自本心,見自本性,無動無静,無生無滅,無去無来,無是無非,無住無往。恐汝等心迷,不会吾意,今再囑汝,令汝見性。吾滅度後,依此修行,如吾在日;若違吾教,縦吾在世,亦無有益。』復説偈曰:『兀兀不修善,騰騰不造悪,寂寂断見聞,蕩蕩心無著。』師説偈已,端坐至三更,忽謂門人曰:『吾行矣!』奄然遷化,於時異香満室,白虹属地,林木変白,禽獣哀嗚。十一月,広韶新三郡官僚,洎門人緇白,争迎真身,莫決所之。乃焚香祷曰:『香煙指処,師所帰焉。』時,香煙直貫曹渓。十一月十三日,遷神龕並所伝衣鉢而回。
書き下し
法身・報身及び化身、三身は本来是れ一身なり。若し性中に向かいて能く自ら見れば、即ち是れ成仏菩提の因なり。本化身より浄性を生じ、浄性は常に化身の中に在り。性は化身をして正道を行ぜしめ、当来円満して真に窮まり無し。淫性は本是れ浄性の因、淫を除けば即ち是れ浄性の身なり。性中に各自五欲を離れば、見性刹那に即ち是れ真なり。今生若し頓教の門に遇わば、忽ち自性を悟りて世尊を見ん。若し修行して仏と作らんことを覓めんと欲せば、知らず何れの処にか真を求めんと擬する。若し能く心中に自ら真を見れば、真有るは即ち是れ成仏の因なり。自性を見ずして外に仏を覓むれば、心を起こすこと総て是れ大痴人なり。頓教の法門今已に留む、世人を救度するには須らく自ら修すべし。汝当来の学道者に報ず、此の見を作さずんば大いに悠悠たらん」』と。師、偈を説き已りて、告げて曰く、『汝等好く住せよ。吾が滅度の後、世情の悲泣して涙を雨らし、人の弔問を受け、身に孝服を著くることを作す莫かれ。吾が弟子に非ず、亦た正法に非ず。但だ自らの本心を識り、自らの本性を見よ。動無く静無く、生無く滅無く、去無く来無く、是無く非無く、住無く往無し。恐らくは汝等心迷いて、吾が意を会せざらん、今再び汝に嘱して、汝をして性を見しむ。吾が滅度の後、此れに依りて修行せば、吾が在りし日の如し。若し吾が教えに違わば、縦い吾世に在るとも、亦た益有ること無し』と。復た偈を説きて曰く、『兀兀として善を修せず、騰騰として悪を造らず。寂寂として見聞を断じ、蕩蕩として心に著する無し』と。師、偈を説き已りて、端坐して三更に至り、忽ち門人に謂いて曰く、『吾行かん』と。奄然として遷化す。時に異香室に満ち、白虹地に属し、林木白に変じ、禽獣哀しみ鳴く。十一月、広・韶・新の三郡の官僚、洎び門人緇白、争いて真身を迎え、之く所を決する莫し。乃ち香を焚きて禱りて曰く、『香煙の指す処、師の帰する所ならん』と。時に香煙直ちに曹渓を貫く。十一月十三日、神龕並びに伝うる所の衣鉢を遷して回る。
現代語訳
(偈は続く。)「法身・報身・化身の三身は、もともと一つの身である。もし自らの本性の中にそれを見ることができれば、それが成仏と菩提の因となる。もともと化身から清浄な本性が生まれ、清浄な本性は常に化身の中にある。本性が化身に正しい道を行わせ、やがて円満になって、真実は窮まることがない。淫らな性は、もともと清浄な本性の因である。淫らさを除けば、そのまま清浄な本性の身である。本性の中でおのおのが五欲を離れれば、本性を見たその刹那が真実である。今生でもし頓悟の教えの門に出会えば、たちまち自性を悟って世尊(仏)を見るだろう。もし修行して仏になろうと求めるなら、いったいどこに真実を求めようとしているのかわかっていない。もし心の中に自ら真実を見ることができれば、その真実こそが成仏の因である。自性を見ずに外に仏を求めるなら、心を起こすことすべてが大愚か者のすることだ。頓悟の法門はいまここに残した。世の人を救うには、自ら修めなければならない。後の世に道を学ぶ者に告げる。この見方をしなければ、むなしく時を過ごすばかりであろう」』。師は偈を説き終えて告げた。『お前たち、元気でいよ。私が亡くなった後、世間のならわしのように悲しんで涙を雨のように流し、人の弔問を受け、喪服を身につけるようなことをしてはならない。そうする者は私の弟子ではなく、正しい法でもない。ただ自分の本心を知り、自分の本性を見よ。そこには動も静もなく、生も滅もなく、去ることも来ることもなく、是も非もなく、とどまることも行くこともない。お前たちが心迷って私の意図を理解しないことを恐れて、いま重ねてお前たちに託し、本性を見させるのである。私が亡くなった後も、これによって修行すれば、私が生きていた日と同じである。もし私の教えに背くなら、たとえ私がこの世にいても、何の益もない』。さらに偈を説いた。『じっと動かず善を修めることもなく、悠々として悪をなすこともない。静まりかえって見聞を断ち、広々として心に執着するものがない』。師は偈を説き終えると、端坐して夜の三更(真夜中)に至り、ふいに門人に言った。『私は行く』。そして静かに息を引き取った。そのとき不思議な香りが部屋に満ち、白い虹が地に届き、林の木々は白く変わり、鳥や獣は悲しげに鳴いた。十一月、広州・韶州・新州の三郡の役人たちと、門人の僧俗が、先を争って真身(遺体)を迎えようとし、どこに納めるか決まらなかった。そこで香を焚いて祈った。『香の煙が指すところが、師の帰られるところであろう』。すると香の煙はまっすぐ曹渓の方へ伸びた。十一月十三日、遺体を納めた厨子と伝えられた衣鉢を移して(曹渓へ)帰った。
解説
関連する章句
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『六祖壇経』付嘱品第十師言く、『汝等諦らかに聽け。後代の迷人、若し眾生を識らば、即ち是れ佛性なり。若し眾生を識らずんば、萬劫に佛を覓むるも逢ひ難し。吾れ今汝に自心の眾生を識り、自心の佛性を見ることを教へん。佛を見んと欲すれば、但だ眾生を識れ。只だ眾生の佛に迷ふが為にして、是れ佛の眾生に迷ふには非ず。自性若し悟らば、眾生は是れ佛なり。自性若し迷はば、佛は是れ眾生なり。自性平等ならば、眾生は是れ佛なり。自性邪險ならば、佛は是れ眾生なり。汝等の心若し險曲ならば、即ち佛眾生の中に在り。一念平直ならば、即ち是れ眾生の佛と成るなり。我が心に自ら佛有り、自らの佛は是れ真の佛なり。自ら若し佛心無くば、何れの處にか真の佛を求めん。汝等の自心は是れ佛なり。更に狐疑すること莫かれ。外に一物として能く建立する無く、皆な是れ本心の萬種の法を生ずるなり。故に經に云く、「心生ずれば、種種の法生じ、心滅すれば、種種の法滅す」と。吾れ今一偈を留めて、汝等と別れん。「自性真佛偈」と名づく。後代の人、此の偈の意を識らば、自ら本心を見て、自ら佛道を成ぜん。偈に曰く』と。
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『六祖壇経』懺悔品第六自心正に帰依すれば、念念に邪見無し、邪見無きを以ての故に、即ち人我・貢高・貪愛・執著無し、離欲尊と名づく。自心浄に帰依すれば、一切の塵労愛欲の境界に、自性皆染著せず、衆中尊と名づく。若し此の行を修せば、是れ自ら帰依するなり。凡夫は会せず、日より夜に至るまで、三帰戒を受く。若し仏に帰依すと言はば、仏は何処にか在る。若し仏を見ずんば、何に憑りてか帰する所あらん。言却つて妄と成る」。「善知識、各自観察して、錯つて心を用ふること莫れ。経文分明に、自ら仏に帰依すと言ひ、他仏に帰依すとは言はず。自仏に帰せずんば、依る所の処無し。今既に自ら悟らば、各須らく自心の三宝に帰依し、内には心性を調へ、外には他人を敬ふべし、是れ自ら帰依するなり」。「善知識、既に自らの三宝に帰依し竟りぬ。各各志心せよ、吾与(ため)に一体三身自性の仏を説き、汝等をして三身を見、了然として自ら自性を悟らしめん。総て我に随ひて道へ。『自らの色身に於て、清浄法身仏に帰依す。自らの色身に於て、円満報身仏に帰依す。自らの色身に於て、千百億化身仏に帰依す』と」。「善知識、色身は是れ舎宅なり、帰向すと言ふべからず。三身の仏は自性の中に在り、世人総て有るも、自心迷へるが為に内性を見ず、外に三身の如来を覓めて、自身の中に三身の仏有るを見ず。汝等説くを聴け、汝等をして自身の中に於て自性に三身の仏有るを見しめん。此の三身の仏は、自性より生じ、外より得ず。何をか清浄法身仏と名づくる。世人の性は本清浄にして、万法は自性より生ず。一切の悪事を思量すれば、即ち悪行を生じ、一切の善事を思量すれば、即ち善行を生ず。是くの如き諸法、自性の中に在り、天の常に清く、日月の常に明らかなるが如きも、浮雲に蓋覆せらるれば、上は明らかに下は暗し。忽ち風吹きて雲散ずるに遇へば、上下倶に明らかに、万象皆現ず。世人の性の常に浮游すること、彼の天の雲の如し。善知識、
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『六祖壇経』懺悔品第六智は日の如く、慧は月の如し。智慧常に明らかなれども、外に於て境に著すれば、妄念の浮雲に蓋覆せられて、自性明朗なることを得ず。若し善知識に遇ひ、真正の法を聞かば、自ら迷妄を除き、内外明徹にして、自性の中に於て、万法皆現ず。見性の人も、亦復是くの如し。此れを清浄法身仏と名づく」。「善知識、自心自性に帰依する、是れ真仏に皈依するなり。自ら皈依する者は、自性の中の不善心・嫉妬心・諂曲心・吾我心・誑妄心・軽人心・慢他心・邪見心・貢高心、及び一切時中の不善の行を除却し、常に自ら己が過を見て、他人の好悪を説かず、是れ自ら皈依するなり。常に須らく心を下して、普く恭敬を行ずべし、即ち是れ見性通達にして、更に滞礙無し、是れ自ら皈依するなり」。「何をか円満報身と名づくる。譬へば一灯の能く千年の闇を除き、一智の能く万年の愚を滅するが如し。前に向ふことを思ふこと莫れ、已に過ぎしは得べからず。常に後を思ひ、念念円明にして、自ら本性を見よ。善悪殊なりと雖も、本性は二無し。無二の性、名づけて実性と為す。実性の中に於て、善悪に染まざる、此れを円満報身仏と名づく。自性一念の悪を起せば、万劫の善因を滅し、自性一念の善を起せば、恒沙の悪尽くることを得。直ちに無上菩提に至るまで、念念自ら見て、本念を失はざる、名づけて報身と為す。何をか千百億化身と名づくる。若し万法を思はざれば性本空の如し、一念思量する、名づけて変化と為す。悪事を思量すれば、化して地獄と為り、善事を思量すれば、化して天堂と為る。毒害は化して竜蛇と為り、慈悲は化して菩薩と為り、智慧は化して上界と為り、愚痴は化して下才と為る。自性の変化甚だ多し、迷人は省覚すること能はず、念念悪を起して、常に悪道を行く。一念の善に回らば、智慧即ち生ず、此れを自性化身仏と名づく」。
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『六祖壇経』付嘱品第十今汝等が為に法を説きて、其の衣を付さず。蓋し汝等の信根淳熟して、決定して疑い無く、大事を任ずるに堪うるが為なり。然も先祖達摩大師の付授の偈の意に拠るに、衣は合に伝うべからず。偈に曰く、「吾本茲の土に来たり、法を伝えて迷情を救う。一花五葉を開き、結果自然に成る」と。』師復た曰く、『汝等若し種智を成就せんと欲せば、須らく一相三昧・一行三昧に達すべし。若し一切の処に於いて相に住せず、彼の相中に於いて憎愛を生ぜず、亦た取捨無く、利益成壊等の事を念ぜず、安閑恬静、虚融澹泊なる、此れを一相三昧と名づく。若し一切の処、行住坐臥に於いて、純一の直心にして、道場を動ぜず、其れ浄土を成す、此れを一行三昧と名づく。若し人二三昧を具うれば、地に種有りて、含蔵長養し、其の実を成熟するが如し。一相一行も、亦復た是くの如し。我今説法するは、猶お時雨の普く大地を潤すが如し。汝等の仏性は、諸を種子に譬う、茲の沾洽に遇いて、悉く皆発生す。吾が旨を承くる者は、決して菩提を獲、吾が行に依る者は、定んで妙果を証せん。吾が偈を聴け。曰く、「心地は諸種を含み、普雨に悉く皆萌す。頓悟して花情已みなば、菩提の果自ずから成る」と。』師、偈を説き已りて曰く、『其の法は無二、其の心も亦た然り。其の道は清浄にして、亦た諸相無し。汝等慎みて静を観じ、及び其の心を空しくすること勿かれ。此の心は本浄にして、取捨すべき無し。各自努力し、縁に随いて好く去れ』と。爾の時、徒衆礼を作して退く。大師、七月八日、忽ち門人に謂いて曰く、『吾新州に帰らんと欲す、汝等速やかに舟楫を理えよ』と。大衆哀しみ留むること甚だ堅し。師曰く、『諸仏の出現すら、猶お涅槃を示す。来る有れば必ず去る、理も亦た常に然り。吾が此の形骸、帰するに必ず所有り』と。衆曰く、『師此れより去らば、早晩か回るべき』と。師曰く、『葉落ちて根に帰す、来る時口無し』と。又問いて曰く、『正法眼蔵は、何人にか伝付する』と。師曰く、『道有る者は得、心無き者は通ず』と。
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