六祖壇経 / 付嘱品第十
今為汝等說法,不付其衣,蓋為汝等信根淳熟,決定無疑堪任大事。然據先祖達摩大師付授偈意,衣不合傳。偈曰:「吾本來茲土,傳法救迷情,一花開五葉,結果自然成。」』師復曰:『汝等若欲成就種智,須達一相三昧,一行三昧。若於一切處而不住相,於彼相中不生憎愛,亦無取捨,不念利益成壞等事,安閒恬靜,虛融澹泊,此名一相三昧。若於一切處行住坐臥,純一直心不動道場,其成淨土,此名一行三昧。若人具二三昧,如地有種,含藏長養,成熟其實,一相一行,亦復如是。我今說法,猶如時雨,普潤大地,汝等佛性,譬諸種子,遇茲沾洽,悉皆發生。承吾旨者,決獲菩提;依吾行者,定證妙果。聽吾偈曰:「心地含諸種,普雨悉皆萌,頓悟花情已,菩提果自成。」』師說偈已,曰:『其法無二,其心亦然,其道清淨,亦無諸相。汝等慎勿觀靜,及空其心;此心本淨,無可取捨,各自努力,隨緣好去。』爾時,徒眾作禮而退。大師,七月八日,忽謂門人曰:『吾欲歸新州,汝等速理舟楫。』大眾哀留甚堅,師曰:『諸佛出現,猶示涅槃;有來必去,理亦常然。吾此形骸,歸必有所。』眾曰:『師從此去,早晚可回。』師曰:『葉落歸根,來時無口。』又問曰:『正法眼藏,傳付何人?』師曰:『有道者得,無心者通。』
新字:今為汝等説法,不付其衣,蓋為汝等信根淳熟,決定無疑堪任大事。然拠先祖達摩大師付授偈意,衣不合伝。偈曰:「吾本来茲土,伝法救迷情,一花開五葉,結果自然成。」』師復曰:『汝等若欲成就種智,須達一相三昧,一行三昧。若於一切処而不住相,於彼相中不生憎愛,亦無取捨,不念利益成壊等事,安閒恬静,虚融澹泊,此名一相三昧。若於一切処行住坐臥,純一直心不動道場,其成浄土,此名一行三昧。若人具二三昧,如地有種,含蔵長養,成熟其実,一相一行,亦復如是。我今説法,猶如時雨,普潤大地,汝等仏性,譬諸種子,遇茲沾洽,悉皆発生。承吾旨者,決獲菩提;依吾行者,定証妙果。聴吾偈曰:「心地含諸種,普雨悉皆萌,頓悟花情已,菩提果自成。」』師説偈已,曰:『其法無二,其心亦然,其道清浄,亦無諸相。汝等慎勿観静,及空其心;此心本浄,無可取捨,各自努力,随縁好去。』爾時,徒衆作礼而退。大師,七月八日,忽謂門人曰:『吾欲帰新州,汝等速理舟楫。』大衆哀留甚堅,師曰:『諸仏出現,猶示涅槃;有来必去,理亦常然。吾此形骸,帰必有所。』衆曰:『師従此去,早晩可回。』師曰:『葉落帰根,来時無口。』又問曰:『正法眼蔵,伝付何人?』師曰:『有道者得,無心者通。』
書き下し
今汝等が為に法を説きて、其の衣を付さず。蓋し汝等の信根淳熟して、決定して疑い無く、大事を任ずるに堪うるが為なり。然も先祖達摩大師の付授の偈の意に拠るに、衣は合に伝うべからず。偈に曰く、「吾本茲の土に来たり、法を伝えて迷情を救う。一花五葉を開き、結果自然に成る」と。』師復た曰く、『汝等若し種智を成就せんと欲せば、須らく一相三昧・一行三昧に達すべし。若し一切の処に於いて相に住せず、彼の相中に於いて憎愛を生ぜず、亦た取捨無く、利益成壊等の事を念ぜず、安閑恬静、虚融澹泊なる、此れを一相三昧と名づく。若し一切の処、行住坐臥に於いて、純一の直心にして、道場を動ぜず、其れ浄土を成す、此れを一行三昧と名づく。若し人二三昧を具うれば、地に種有りて、含蔵長養し、其の実を成熟するが如し。一相一行も、亦復た是くの如し。我今説法するは、猶お時雨の普く大地を潤すが如し。汝等の仏性は、諸を種子に譬う、茲の沾洽に遇いて、悉く皆発生す。吾が旨を承くる者は、決して菩提を獲、吾が行に依る者は、定んで妙果を証せん。吾が偈を聴け。曰く、「心地は諸種を含み、普雨に悉く皆萌す。頓悟して花情已みなば、菩提の果自ずから成る」と。』師、偈を説き已りて曰く、『其の法は無二、其の心も亦た然り。其の道は清浄にして、亦た諸相無し。汝等慎みて静を観じ、及び其の心を空しくすること勿かれ。此の心は本浄にして、取捨すべき無し。各自努力し、縁に随いて好く去れ』と。爾の時、徒衆礼を作して退く。大師、七月八日、忽ち門人に謂いて曰く、『吾新州に帰らんと欲す、汝等速やかに舟楫を理えよ』と。大衆哀しみ留むること甚だ堅し。師曰く、『諸仏の出現すら、猶お涅槃を示す。来る有れば必ず去る、理も亦た常に然り。吾が此の形骸、帰するに必ず所有り』と。衆曰く、『師此れより去らば、早晩か回るべき』と。師曰く、『葉落ちて根に帰す、来る時口無し』と。又問いて曰く、『正法眼蔵は、何人にか伝付する』と。師曰く、『道有る者は得、心無き者は通ず』と。
現代語訳
いまお前たちのために法を説いたが、衣は託さない。それはお前たちの信の根が十分に熟し、迷いなく心が定まって、大事を担うに足りるからである。しかも先祖の達摩大師が託した偈の意味によれば、衣は伝えるべきではない。その偈にいう。「私はもともとこの国に来て、法を伝え迷える者を救おうとした。一つの花が五枚の葉を開き、実はおのずと成るであろう」』。師はさらに言った。『お前たちがもし一切を知る仏の智慧を成就したいのなら、一相三昧と一行三昧に達しなければならない。あらゆる場で相にとどまらず、その相の中にあっても憎しみや愛着を起こさず、取ることも捨てることもなく、利益や成功・失敗などのことを思わず、安らかで静かに、とらわれなく淡々としている、これを一相三昧という。あらゆる場で、歩くときも止まるときも坐るときも臥すときも、混じりけのないまっすぐな心で、道場を離れずにそこを浄土とする、これを一行三昧という。もし人がこの二つの三昧を備えるなら、大地に種があって、それを包み育て、実を熟させるようなものだ。一相も一行も、またこれと同じである。私がいま法を説くのは、ちょうど時宜を得た雨があまねく大地を潤すようなものだ。お前たちの仏性は種子にたとえられる。この潤いにあえば、みな芽を出す。私の教えを受け継ぐ者は必ず菩提を得、私の行いにしたがう者はきっと妙なる果を証するだろう。わが偈を聴け。「心の大地はもろもろの種を含み、あまねく降る雨にみな芽吹く。一挙に悟って花の思いが尽きれば、菩提の実はおのずと成る」』。師は偈を説き終えて言った。『その法は二つではなく、その心もまたそうである。その道は清浄で、もろもろの相もない。お前たちは、静けさを観じたり、心を空っぽにしたりしないよう慎め。この心はもともと清浄で、取るものも捨てるものもない。各自努め、縁にしたがって、よく行け』。そのとき門徒たちは礼拝して退いた。大師は七月八日、ふいに門人たちに言った。『私は新州に帰ろうと思う。お前たちはすぐに舟の支度をせよ』。大衆は悲しんで、しきりに引き留めた。師は言った。『諸仏がこの世に現れても、なお涅槃を示される。来たものは必ず去る。道理もまた常にそうである。私のこの体も、帰るべきところが必ずある』。人々は言った。『師がここから去られたら、いつ戻られるのか』。師は言った。『葉は落ちて根に帰る。来たときには口などなかった』。さらに問うた。『正法眼蔵(仏法の真髄)は誰に託されるのか』。師は言った。『道ある者が得、心なき者が通じる』。
解説
関連する章句
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『六祖壇経』行由品第一祖、本性を悟れるを知り、恵能に謂ひて曰く、「本心を識らずんば、法を学ぶも益無し。若し自らの本心を識り、自らの本性を見ば、即ち丈夫・天人師・仏と名づく」と。三更に法を受け、人尽く知らず。便ち頓教及び衣鉢を伝へて云ふ、「汝を第六代の祖と為す。善く自ら護念し、広く有情を度し、将来に流布して、断絶せしむること無かれ。吾が偈を聴け、曰く、『情有りて来りて種を下せば、地に因りて果還た生ず。情無ければ亦種無く、性無ければ亦生無し』と。祖復た曰く、「昔、達摩大師初めて此の土に来るに、人未だ之を信ぜず。故に此の衣を伝へて以て信体と為し、代代相承く。法は則ち心を以て心に伝へ、皆自ら悟り自ら解せしむ。古より、仏仏惟だ本体を伝へ、師師密かに本心を付す。衣は争ひの端為り、汝に止めて伝ふること勿れ。若し此の衣を伝へば、命懸糸の如し。汝須らく速やかに去るべし。人の汝を害せんことを恐る」と。恵能啓して曰く、「甚(いづ)れの処に向ひて去らん」と。祖云ふ、「懐に逢はば則ち止まり、会に遇はば則ち蔵(かく)れよ」と。三更に衣鉢を領得す。五祖送りて九江の駅に至り、祖、船に上らしむ。恵能随即ち櫓を把る。祖云ふ、「合(まさ)に是れ吾汝を渡すべし」と。恵能云ふ、「迷ふ時は師度し、悟り了れば自ら度す。度の名は一なりと雖も、用処同じからず。恵能は辺方に生まれ、語音正しからざるに、師の法を付するを蒙る。今已に悟ることを得たり。只だ合に自性にて自ら度すべし」と。祖云ふ、「是の如し、是の如し。以後の仏法は、汝に由りて大いに行はれん。汝今好く去れ。努力して南に向へ。速やかに説くに宜しからず、仏法起り難し」と。恵能、祖に辞違し已りて、足を発して南に行く。両月の中間に、大庾嶺に至る。後を逐ひて数百人来り、衣鉢を奪はんと欲す。一僧、俗姓は陳、名は恵明、先は是れ四品の将軍なり。性行粗燥にして、極意に参尋し、衆人の先と為り、恵能に趨(はし)り及ぶ。恵能、衣鉢を擲下して、草莽の中に隠る。恵明至り、提ぐるも動かず、乃ち喚びて云ふ、「行者、行者、我は法の為に来る、衣の為に来らず」と。恵能遂に出でて、盤石の上に坐す。恵明礼を作して云ふ、「望むらくは行者、我が為に法を説け」と。恵能曰く、「汝既に法の為にして来らば、諸縁を屏息して、一念をも生ずること勿れ。吾汝が為に説かん」と。
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『六祖壇経』付嘱品第十法身・報身及び化身、三身は本来是れ一身なり。若し性中に向かいて能く自ら見れば、即ち是れ成仏菩提の因なり。本化身より浄性を生じ、浄性は常に化身の中に在り。性は化身をして正道を行ぜしめ、当来円満して真に窮まり無し。淫性は本是れ浄性の因、淫を除けば即ち是れ浄性の身なり。性中に各自五欲を離れば、見性刹那に即ち是れ真なり。今生若し頓教の門に遇わば、忽ち自性を悟りて世尊を見ん。若し修行して仏と作らんことを覓めんと欲せば、知らず何れの処にか真を求めんと擬する。若し能く心中に自ら真を見れば、真有るは即ち是れ成仏の因なり。自性を見ずして外に仏を覓むれば、心を起こすこと総て是れ大痴人なり。頓教の法門今已に留む、世人を救度するには須らく自ら修すべし。汝当来の学道者に報ず、此の見を作さずんば大いに悠悠たらん」』と。師、偈を説き已りて、告げて曰く、『汝等好く住せよ。吾が滅度の後、世情の悲泣して涙を雨らし、人の弔問を受け、身に孝服を著くることを作す莫かれ。吾が弟子に非ず、亦た正法に非ず。但だ自らの本心を識り、自らの本性を見よ。動無く静無く、生無く滅無く、去無く来無く、是無く非無く、住無く往無し。恐らくは汝等心迷いて、吾が意を会せざらん、今再び汝に嘱して、汝をして性を見しむ。吾が滅度の後、此れに依りて修行せば、吾が在りし日の如し。若し吾が教えに違わば、縦い吾世に在るとも、亦た益有ること無し』と。復た偈を説きて曰く、『兀兀として善を修せず、騰騰として悪を造らず。寂寂として見聞を断じ、蕩蕩として心に著する無し』と。師、偈を説き已りて、端坐して三更に至り、忽ち門人に謂いて曰く、『吾行かん』と。奄然として遷化す。時に異香室に満ち、白虹地に属し、林木白に変じ、禽獣哀しみ鳴く。十一月、広・韶・新の三郡の官僚、洎び門人緇白、争いて真身を迎え、之く所を決する莫し。乃ち香を焚きて禱りて曰く、『香煙の指す処、師の帰する所ならん』と。時に香煙直ちに曹渓を貫く。十一月十三日、神龕並びに伝うる所の衣鉢を遷して回る。
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『六祖壇経』疑問品第三「心平らかなれば何ぞ戒を持つを勞せん。行直ければ何ぞ禪を修むるを用ゐん。 恩は則ち父母を孝養し、義は則ち上下相ひ憐れむ。 讓は則ち尊卑和睦し、忍は則ち眾惡喧しきこと無し。 若し能く木を鑽りて火を出ださば、淤泥に定めて紅蓮を生ぜん。 口に苦きは的ち是れ良藥、耳に逆らふは必ず是れ忠言。 過ちを改むれば必ず智慧を生じ、短を護れば心內に賢に非ず。 日用に常に饒益を行ぜよ、道を成すは錢を施すに由るに非ず。 菩提は只だ心に向かひて覓めよ、何ぞ外に向かひて玄を求むるを勞せん。 説を聽きて此に依りて修行せば、西方は只だ目前に在り。」 師復た曰く、『善知識よ、總て須らく偈に依りて修行し、自性を見取して、直ちに佛道を成ずべし。法は相ひ待たず。眾人且く散ぜよ。吾れ曹溪に歸らん。眾若し疑有らば、卻きて來りて相ひ問へ』と。
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『六祖壇経』付嘱品第十師云う、『神会小師は、却って善不善等しきを得て、毀誉に動ぜず、哀楽生ぜず。余の者は得ず。数年山中にて、竟に何の道をか修せる。汝今悲泣するは、阿誰をか憂うと為す。若し吾が去処を知らざるを憂うるならば、吾自ら去処を知る。吾若し去処を知らずんば、終に預め汝に報ぜず。汝等の悲泣するは、蓋し吾が去処を知らざるが為なり。若し吾が去処を知らば、即ち合に悲泣すべからず。法性は本より生滅去来無し。汝等尽く坐せよ、吾汝が与に一偈を説かん、名づけて「真仮動静偈」と曰う。汝等此の偈を誦取し、吾と意同じくし、此れに依りて修行せば、宗旨を失わず』と。衆僧礼を作し、師に偈を作らんことを請う。偈に曰く、『一切に真有ること無し、真を見るを以てせず。若し真を見る者は、是の見は尽く真に非ず。若し能く自ら真有らば、仮を離るるは即ち心の真なり。自心仮を離れずんば、真無し、何れの処か真ならん。有情は即ち動を解し、無情は即ち動かず。若し不動の行を修せば、無情の不動に同じ。若し真の不動を覓めば、動上に不動有り。不動は是れ不動なり、無情には仏種無し。能く善く相を分別し、第一義にして動かず。但だ此くの如き見を作さば、即ち是れ真如の用なり。諸の学道の人に報ず、努力して須らく意を用うべし。大乗の門に于いて、却って生死の智に執する莫かれ。若し言下に相応せば、即ち共に仏義を論ぜよ。若し実に相応せずんば、合掌して歓喜せしめよ。此の宗は本より諍い無し、諍えば即ち道意を失う。逆に執して法門を諍えば、自性は生死に入る』と。時に徒衆、偈を説くを聞き已りて、普く皆礼を作し、並びに師の意を体し、各各心を摂めて、法に依りて修行し、更に敢えて諍わず。乃ち大師の久しく世に住せざるを知る。法海上座、再拝して問いて曰く、『和尚入滅の後、衣法は当に何人にか付すべき』と。師曰く、『吾、大梵寺に法を説きしより以て今に至るまで、抄録して流行し、目づけて「法宝壇経」と曰う。汝等守護して、遞相に伝授し、諸の群生を度せよ。但だ此の説に依らば、是れを正法と名づく。
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『六祖壇経』般若品第二吾が頌を聴け、曰く、説通及び心通は、日の虚空に処するが如し。唯だ見性の法を伝へ、世に出でて邪宗を破す。法には即ち頓漸無し、迷悟に遅疾有り。只だ此の見性の門、愚人は悉くすべからず。説くことは即ち万般なりと雖も、理に合すれば還た一に帰す。煩悩の暗宅の中、常に須らく慧日を生ずべし。邪来れば煩悩至り、正来れば煩悩除く。邪正倶に用ひざれば、清浄にして無余に至る。菩提は本自性なり、心を起せば即ち是れ妄なり。浄心は妄の中に在り、但だ正しければ三障無し。世人若し道を修せば、一切尽く妨げず。常に自ら己が過を見れば、道と即ち相当る。色類自ら道有り、各相妨げ悩まさず。道を離れて別に道を覓むれば、終生道を見ず。波波として一生を度り、到頭(つまるところ)還た自ら懊む。真道を見んと欲得せば、正を行ずる即ち是れ道なり。自ら若し道心無くば、闇に行きて道を見ず。若し真に修道の人ならば、世間の過を見ず。若し他人の非を見ば、自らの非却つて是れ左(たが)ふ。他は非なるも我は非とせず、我が非は自ら過有り。但だ自ら非心を却(しりぞ)け、煩悩を打除して破れ。憎愛心に関せず、長く両脚を伸べて臥す。他人を化せんと擬欲せば、自ら須らく方便有るべし。彼をして疑ひ有らしむること勿れ、即ち是れ自性現ず。仏法は世間に在り、世間を離れずして覚る。世を離れて菩提を覓むるは、恰も兎角を求むるが如し。正見を出世と名づけ、邪見を世間と名づく。邪正尽く打却すれば、菩提の性宛然たり。此の頌は是れ頓教、亦大法船と名づく。迷ひて聞けば経ること累劫、悟れば則ち刹那の間なり。師復た曰く、「今大梵寺に於て此の頓教を説く。普く願はくは法界の衆生、言下に見性成仏せんことを」と。時に韋使君と官僚道俗、師の説く所を聞きて、省悟せざる無し。一時に礼を作し、皆善き哉と嘆ず。何ぞ期せん、嶺南に仏有りて世に出でんとは。
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『六祖壇経』付嘱品第十空に執するの人は、経を謗りて直ちに文字を用いずと言う有り。即ち文字を用いずと云わば、人も亦た合に語言すべからず。只だ此の語言、便ち是れ文字の相なり。又云う、直道は文字を立てずと。即ち此の不立の両字も、亦た是れ文字なり。人の説く所を見て、便即ち他を謗りて文字に著すと言う。汝等須らく知るべし、自ら迷うは猶お可なり、又仏経を謗る。経を謗ることを要せざれ、罪障無数なり。若し外に相に著して、法を作して真を求め、或いは広く道場を立てて、有無の過患を説く、是くの如きの人は、累劫にも性を見るべからず。但だ法に依りて修行するを聴け。又百物を思わずして、道性に於いて窒礙すること莫かれ。若し説くを聴きて修せずんば、人をして反って邪念を生ぜしむ。但だ法に依りて修行し、住相無き法施をせよ。汝等若し悟らば、此れに依りて説き、此れに依りて用い、此れに依りて行じ、此れに依りて作せば、即ち本宗を失わず。若し人有りて汝に義を問わば、有を問えば無を将て対し、無を問えば有を将て対し、凡を問えば聖を以て対し、聖を問えば凡を以て対せよ。二道相因りて、中道の義を生ず。汝一問に一対し、余の問も一に此れに依りて作さば、即ち理を失わざるなり。設し人有りて問わん、「何をか名づけて暗と為す」と。答えて云え、「明は是れ因、暗は是れ縁なり。明没すれば則ち暗なり。明を以て晦を顕し、暗を以て明を顕す。来去相因りて、中道の義を成す。余の問も悉く皆此くの如し」と。汝等後に法を伝うるに、此れに依りて転た相教授し、宗旨を失うこと勿かれ。』師、大極元年壬子、延和の七月に門人に命じて新州の国恩寺に往きて塔を建てしめ、仍お工を促さしむ。次の年の夏末に落成す。七月一日、徒衆を集めて曰く、『吾八月に至りて、世間を離れんと欲す。汝等疑い有らば、早く須らく相問うべし。汝が為に疑いを破り、汝が迷いをして尽きしめん。吾若し去りて後は、人の汝に教うる無からん』と。法海等聞きて、悉く皆涕泣す。惟だ神会のみ有りて、神情動かず、亦た涕泣すること無し。
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