六祖壇経 / 懺悔品第六
自心歸依正,念念無邪見,以無邪見故,即無人我貢高貪愛執著,名離欲尊。自心歸依淨,一切塵勞愛慾境界,自性皆不染著,名眾中尊。若修此行,是自歸依,凡夫不會,從日至夜,受三歸戒,若言歸依佛,佛在何處?若不見佛,憑何所歸?言卻成妄。』『善知識!各自觀察,莫錯用心。經文分明言、自歸依佛,不言歸依他佛。自佛不歸,無所依處。今既自悟,各須歸依自心三寶,內調心性,外敬他人,是自歸依也。』『善知識!既歸依自三寶竟,各各志心,吾與說一體三身自性佛,令汝等見三身,瞭然自悟自性,總隨我道:「於自色身,歸依清淨法身佛;於自色身,歸依圓滿報身佛;於自色身,歸依千百億化身佛。」』『善知識!色身是舍宅,不可言歸向者。三身佛在自性中,世人總有為自心迷不見內性,外覓三身如來,不見自身中有三身佛。汝等聽說,令汝等於自身中見自性有三身佛。此三身佛,從自性生,不從外得。何名清淨法身佛?世人性本清淨,萬法從自性生;思量一切惡事,即生惡行;思量一切善事,即生善行。如是諸法,在自性中,如天常清,日月常明,為浮雲蓋覆,上明下暗,忽遇風吹雲散,上下俱明,萬象皆現;世人性常浮游,如彼天雲。善知識!
新字:自心帰依正,念念無邪見,以無邪見故,即無人我貢高貪愛執著,名離欲尊。自心帰依浄,一切塵労愛慾境界,自性皆不染著,名衆中尊。若修此行,是自帰依,凡夫不会,従日至夜,受三帰戒,若言帰依仏,仏在何処?若不見仏,憑何所帰?言却成妄。』『善知識!各自観察,莫錯用心。経文分明言、自帰依仏,不言帰依他仏。自仏不帰,無所依処。今既自悟,各須帰依自心三宝,内調心性,外敬他人,是自帰依也。』『善知識!既帰依自三宝竟,各各志心,吾与説一体三身自性仏,令汝等見三身,瞭然自悟自性,総随我道:「於自色身,帰依清浄法身仏;於自色身,帰依円満報身仏;於自色身,帰依千百億化身仏。」』『善知識!色身是舎宅,不可言帰向者。三身仏在自性中,世人総有為自心迷不見内性,外覓三身如来,不見自身中有三身仏。汝等聴説,令汝等於自身中見自性有三身仏。此三身仏,従自性生,不従外得。何名清浄法身仏?世人性本清浄,万法従自性生;思量一切悪事,即生悪行;思量一切善事,即生善行。如是諸法,在自性中,如天常清,日月常明,為浮雲蓋覆,上明下暗,忽遇風吹雲散,上下倶明,万象皆現;世人性常浮游,如彼天雲。善知識!
書き下し
自心正に帰依すれば、念念に邪見無し、邪見無きを以ての故に、即ち人我・貢高・貪愛・執著無し、離欲尊と名づく。自心浄に帰依すれば、一切の塵労愛欲の境界に、自性皆染著せず、衆中尊と名づく。若し此の行を修せば、是れ自ら帰依するなり。凡夫は会せず、日より夜に至るまで、三帰戒を受く。若し仏に帰依すと言はば、仏は何処にか在る。若し仏を見ずんば、何に憑りてか帰する所あらん。言却つて妄と成る」。「善知識、各自観察して、錯つて心を用ふること莫れ。経文分明に、自ら仏に帰依すと言ひ、他仏に帰依すとは言はず。自仏に帰せずんば、依る所の処無し。今既に自ら悟らば、各須らく自心の三宝に帰依し、内には心性を調へ、外には他人を敬ふべし、是れ自ら帰依するなり」。「善知識、既に自らの三宝に帰依し竟りぬ。各各志心せよ、吾与(ため)に一体三身自性の仏を説き、汝等をして三身を見、了然として自ら自性を悟らしめん。総て我に随ひて道へ。『自らの色身に於て、清浄法身仏に帰依す。自らの色身に於て、円満報身仏に帰依す。自らの色身に於て、千百億化身仏に帰依す』と」。「善知識、色身は是れ舎宅なり、帰向すと言ふべからず。三身の仏は自性の中に在り、世人総て有るも、自心迷へるが為に内性を見ず、外に三身の如来を覓めて、自身の中に三身の仏有るを見ず。汝等説くを聴け、汝等をして自身の中に於て自性に三身の仏有るを見しめん。此の三身の仏は、自性より生じ、外より得ず。何をか清浄法身仏と名づくる。世人の性は本清浄にして、万法は自性より生ず。一切の悪事を思量すれば、即ち悪行を生じ、一切の善事を思量すれば、即ち善行を生ず。是くの如き諸法、自性の中に在り、天の常に清く、日月の常に明らかなるが如きも、浮雲に蓋覆せらるれば、上は明らかに下は暗し。忽ち風吹きて雲散ずるに遇へば、上下倶に明らかに、万象皆現ず。世人の性の常に浮游すること、彼の天の雲の如し。善知識、
現代語訳
自分の心が正に帰依すれば、一念一念に邪な見方が無く、邪な見方が無いから、人と我を分ける驕り高ぶりや、貪りの愛着や執着が無い。これを離欲尊と呼ぶ。自分の心が浄に帰依すれば、一切の煩わしい世俗の労苦や愛欲の対象に、本性がまったく染まらない。これを衆中尊と呼ぶ。もしこの行を修めるなら、これこそ自分に帰依することである。凡夫はそれがわからず、朝から晩まで三帰戒を受けている。もし仏に帰依すると言うなら、その仏はどこにいるのか。もし仏を見ないなら、何を頼りに帰依するのか。その言葉はかえって虚妄となる。」「善知識よ、それぞれ自分で観察し、心の用い方を誤ってはならない。経文ははっきりと『自ら仏に帰依する』と言っており、『他の仏に帰依する』とは言っていない。自分の仏に帰依しなければ、依りどころはどこにも無い。いまみずから悟ったのなら、それぞれ自分の心の三宝に帰依し、内には心の本性を調え、外には他人を敬わなければならない。これが自分に帰依するということである。」「善知識よ、自分の三宝に帰依し終えたので、それぞれ心を一つにせよ。わたしは諸君のために一体三身自性仏(一つの本性に具わる三つの仏身)を説き、諸君に三身を見させ、はっきりと自分で自分の本性を悟らせよう。皆わたしに続いて唱えよ。『自分の色身(肉体)において、清浄法身仏に帰依する。自分の色身において、円満報身仏に帰依する。自分の色身において、千百億化身仏に帰依する。』」「善知識よ、色身は住まいのようなものであって、そこへ帰依すると言うことはできない。三身の仏は自分の本性の中にあり、世の人は誰もが具えているのに、自分の心が迷っているために内なる本性を見ず、外に三身の如来を探し求め、自分の身の中に三身の仏があることを見ない。諸君、わたしの説くことを聞け。諸君に、自分の身の中で、本性に三身の仏があることを見させよう。この三身の仏は本性から生じるのであり、外から得るものではない。何を清浄法身仏と呼ぶのか。世の人の本性はもともと清浄であり、あらゆるものは本性から生じる。一切の悪事を思いめぐらせば悪い行いが生じ、一切の善事を思いめぐらせば善い行いが生じる。このように諸々のものは本性の中にある。それはちょうど、天は常に清く、日月は常に明るいのに、浮雲に覆われると上は明るく下は暗くなり、ふと風が吹いて雲が散ると、上も下も明るくなって万象がすべて現れるようなものだ。世の人の本性が常に浮ついてさまようのは、あの天の雲のようなものである。善知識よ、
解説
関連する章句
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『六祖壇経』懺悔品第六『善知識よ、法身は本より具はる。念念に自性自ら見る、即ち是れ報身佛なり。報身より思量する、即ち是れ化身佛なり。自ら悟り自ら修する自性の功德、是れ真の歸依なり。皮肉は是れ色身、色身は是れ宅舍なり、歸依と言はざるなり。但だ自性の三身を悟らば、即ち自性の佛を識る』と。
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『六祖壇経』懺悔品第六智は日の如く、慧は月の如し。智慧常に明らかなれども、外に於て境に著すれば、妄念の浮雲に蓋覆せられて、自性明朗なることを得ず。若し善知識に遇ひ、真正の法を聞かば、自ら迷妄を除き、内外明徹にして、自性の中に於て、万法皆現ず。見性の人も、亦復是くの如し。此れを清浄法身仏と名づく」。「善知識、自心自性に帰依する、是れ真仏に皈依するなり。自ら皈依する者は、自性の中の不善心・嫉妬心・諂曲心・吾我心・誑妄心・軽人心・慢他心・邪見心・貢高心、及び一切時中の不善の行を除却し、常に自ら己が過を見て、他人の好悪を説かず、是れ自ら皈依するなり。常に須らく心を下して、普く恭敬を行ずべし、即ち是れ見性通達にして、更に滞礙無し、是れ自ら皈依するなり」。「何をか円満報身と名づくる。譬へば一灯の能く千年の闇を除き、一智の能く万年の愚を滅するが如し。前に向ふことを思ふこと莫れ、已に過ぎしは得べからず。常に後を思ひ、念念円明にして、自ら本性を見よ。善悪殊なりと雖も、本性は二無し。無二の性、名づけて実性と為す。実性の中に於て、善悪に染まざる、此れを円満報身仏と名づく。自性一念の悪を起せば、万劫の善因を滅し、自性一念の善を起せば、恒沙の悪尽くることを得。直ちに無上菩提に至るまで、念念自ら見て、本念を失はざる、名づけて報身と為す。何をか千百億化身と名づくる。若し万法を思はざれば性本空の如し、一念思量する、名づけて変化と為す。悪事を思量すれば、化して地獄と為り、善事を思量すれば、化して天堂と為る。毒害は化して竜蛇と為り、慈悲は化して菩薩と為り、智慧は化して上界と為り、愚痴は化して下才と為る。自性の変化甚だ多し、迷人は省覚すること能はず、念念悪を起して、常に悪道を行く。一念の善に回らば、智慧即ち生ず、此れを自性化身仏と名づく」。
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『六祖壇経』付嘱品第十法身・報身及び化身、三身は本来是れ一身なり。若し性中に向かいて能く自ら見れば、即ち是れ成仏菩提の因なり。本化身より浄性を生じ、浄性は常に化身の中に在り。性は化身をして正道を行ぜしめ、当来円満して真に窮まり無し。淫性は本是れ浄性の因、淫を除けば即ち是れ浄性の身なり。性中に各自五欲を離れば、見性刹那に即ち是れ真なり。今生若し頓教の門に遇わば、忽ち自性を悟りて世尊を見ん。若し修行して仏と作らんことを覓めんと欲せば、知らず何れの処にか真を求めんと擬する。若し能く心中に自ら真を見れば、真有るは即ち是れ成仏の因なり。自性を見ずして外に仏を覓むれば、心を起こすこと総て是れ大痴人なり。頓教の法門今已に留む、世人を救度するには須らく自ら修すべし。汝当来の学道者に報ず、此の見を作さずんば大いに悠悠たらん」』と。師、偈を説き已りて、告げて曰く、『汝等好く住せよ。吾が滅度の後、世情の悲泣して涙を雨らし、人の弔問を受け、身に孝服を著くることを作す莫かれ。吾が弟子に非ず、亦た正法に非ず。但だ自らの本心を識り、自らの本性を見よ。動無く静無く、生無く滅無く、去無く来無く、是無く非無く、住無く往無し。恐らくは汝等心迷いて、吾が意を会せざらん、今再び汝に嘱して、汝をして性を見しむ。吾が滅度の後、此れに依りて修行せば、吾が在りし日の如し。若し吾が教えに違わば、縦い吾世に在るとも、亦た益有ること無し』と。復た偈を説きて曰く、『兀兀として善を修せず、騰騰として悪を造らず。寂寂として見聞を断じ、蕩蕩として心に著する無し』と。師、偈を説き已りて、端坐して三更に至り、忽ち門人に謂いて曰く、『吾行かん』と。奄然として遷化す。時に異香室に満ち、白虹地に属し、林木白に変じ、禽獣哀しみ鳴く。十一月、広・韶・新の三郡の官僚、洎び門人緇白、争いて真身を迎え、之く所を決する莫し。乃ち香を焚きて禱りて曰く、『香煙の指す処、師の帰する所ならん』と。時に香煙直ちに曹渓を貫く。十一月十三日、神龕並びに伝うる所の衣鉢を遷して回る。
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『六祖壇経』懺悔品第六「善知識、既に懺悔し已りて、善知識と四弘誓願を発さん。各須らく心を用ひて正しく聴くべし。自心の衆生無辺なれども誓つて度せんことを願ふ。自心の煩悩無辺なれども誓つて断ぜんことを願ふ。自性の法門無尽なれども誓つて学ばんことを願ふ。自性の無上仏道誓つて成ぜんことを願ふ」。「善知識、大家(みな)豈に道はざらんや、衆生無辺誓願度と。怎麼(いか)にか道ふ、且つ是れ惠能の度するにあらず。善知識、心中の衆生、所謂邪迷心・誑妄心・不善心・嫉妬心・悪毒心、是くの如き等の心、尽く是れ衆生なり。各須らく自性自ら度すべし、是れを真の度と名づく」。「何をか自性自度と名づくる。即ち自心の中の邪見・煩悩・愚痴の衆生を、正見を将(もつ)て度す。既に正見有らば、般若の智をして愚痴迷妄の衆生を打破せしめ、各各自ら度す。邪来れば正もて度し、迷来れば悟もて度し、愚来れば智もて度し、悪来れば善もて度す。是くの如く度する者を、名づけて真の度と為す」。「又、煩悩無辺誓願断とは、自性の般若の智を将て、虚妄の思想の心を除却する是れなり。又、法門無尽誓願学とは、須らく自ら性を見て、常に正法を行ずべし、是れを真の学と名づく。又、無上仏道誓願成とは、既に常に能く心を下して真正を行じ、迷を離れ覚を離れ、常に般若を生じ、真を除き妄を除かば、即ち仏性を見、即ち言下に仏道成る。常に念じて修行する、是れ願力の法なり。善知識、今四弘願を発し了りぬ。更に善知識の与(ため)に無相の三帰依戒を授けん」。「善知識、覚の両足尊に帰依し、正の離欲尊に帰依し、浄の衆中尊に帰依せよ。今日より起(はじ)めて、覚を称して師と為し、更に邪魔外道に帰依せざれ。自性の三宝を以て、常に自ら証明せよ。善知識に勧む、自性の三宝に帰依せよ。仏とは覚なり、法とは正なり、僧とは浄なり。自心覚に帰依すれば、邪迷生ぜず、少欲知足にして、能く財色を離る、両足尊と名づく。
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『六祖壇経』付嘱品第十師言く、『汝等諦らかに聽け。後代の迷人、若し眾生を識らば、即ち是れ佛性なり。若し眾生を識らずんば、萬劫に佛を覓むるも逢ひ難し。吾れ今汝に自心の眾生を識り、自心の佛性を見ることを教へん。佛を見んと欲すれば、但だ眾生を識れ。只だ眾生の佛に迷ふが為にして、是れ佛の眾生に迷ふには非ず。自性若し悟らば、眾生は是れ佛なり。自性若し迷はば、佛は是れ眾生なり。自性平等ならば、眾生は是れ佛なり。自性邪險ならば、佛は是れ眾生なり。汝等の心若し險曲ならば、即ち佛眾生の中に在り。一念平直ならば、即ち是れ眾生の佛と成るなり。我が心に自ら佛有り、自らの佛は是れ真の佛なり。自ら若し佛心無くば、何れの處にか真の佛を求めん。汝等の自心は是れ佛なり。更に狐疑すること莫かれ。外に一物として能く建立する無く、皆な是れ本心の萬種の法を生ずるなり。故に經に云く、「心生ずれば、種種の法生じ、心滅すれば、種種の法滅す」と。吾れ今一偈を留めて、汝等と別れん。「自性真佛偈」と名づく。後代の人、此の偈の意を識らば、自ら本心を見て、自ら佛道を成ぜん。偈に曰く』と。
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『臨済録』示衆爾若し自ら信不及ならば、即便ち忙忙地に一切の境に徇って転じ、他の万境に回換せられて、自由を得ず。爾若し能く念念馳求の心を歇得せば、便ち祖仏と別ならず。爾、祖仏を識らんと欲得すや。秖だ爾が面前聴法底、是れなり。学人信不及にして、便ち外に向かって馳求す。設い求め得る者も、皆な是れ文字の勝相にして、終に他の活祖意を得ず。錯ること莫かれ、諸禅徳。此の時遇わずんば、万劫千生、三界に輪回し、好境に徇って掇し去り、驢牛の肚裏に生ぜん。道流、山僧が見処に約せば、釈迦と別ならず。今日多般の用処、什麼をか欠少す。六道の神光、未だ曾て間歇せず。若し能く是の如く見得せば、秖だ是れ一生無事の人なり。大徳、三界は安きこと無し、猶お火宅の如し。此れは是れ爾が久しく停住する処にあらず。無常の殺鬼は一刹那の間に、貴賤老少を揀ばず。爾、祖仏と別ならざらんと要せば、但だ外に求むること莫かれ。爾が一念心上の清浄の光は、是れ爾が屋裏の法身仏なり。爾が一念心上の無分別の光は、是れ爾が屋裏の報身仏なり。爾が一念心上の無差別の光は、是れ爾が屋裏の化身仏なり。此の三種の身は、是れ爾が即今目前聴法底の人なり。秖だ外に向かって馳求せざるが為に、此の功用有り。経論家に拠らば、三種の身を取って極則と為す。山僧が見処に約せば然らず。此の三種の身は是れ名言なり、亦た是れ三種の依なり。古人云く、『身は義に依って立し、土は体に拠って論ず。』法性の身、法性の土、明らかに知んぬ、是れ光影なることを。大徳、爾且く光影を弄する底の人を識取せよ。是れ諸仏の本源、一切処是れ道流が帰舎の処なり。是れ爾が四大の色身は説法聴法を解せず、脾胃肝胆は説法聴法を解せず、虚空は説法聴法を解せず。是れ什麼か説法聴法を解する。
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